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陸軍登戸研究所、高まる関心 怪力電波・偽札・風船爆弾…極秘に開発

戦時中、様々な秘密兵器を研究していたことで知られる陸軍登戸研究所。跡地に建つ資料館が「例年の倍」という来場者を集めています。

旧陸軍が偽札を製造していた登戸研究所5号棟の内部。2011年に解体され、今はもうない
旧陸軍が偽札を製造していた登戸研究所5号棟の内部。2011年に解体され、今はもうない 出典: 朝日新聞

偽札、1940年には「実用化」

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 登戸研究所では「偽札」も作られていました。中国経済の混乱を狙ったものでした。偽札製造に関わっていた元研究員によると、当初は失敗の連続で、インクがうまくのらず、すぐに偽札だとばれてしまう状態でした。試行錯誤の結果、1940年ごろにはすぐには偽札だとわからないものが作れるようになりました。

 偽札作戦は「杉工作」と呼ばれ、中国では「松機関」という秘密結社が担当していました。1945年4月には、空襲を逃れて福井県に研究所ごと疎開します。現地の製紙工場を借り上げますが、機器の搬入がうまくいかず、そのままま敗戦に。研究員の中には名古屋市内で印刷会社を立ち上げた人もいました。

登戸研究所資料館所蔵の偽札
登戸研究所資料館所蔵の偽札
当初は失敗の連続でした。紙幣は極めて精密にできているので、インキがうまくのらなかったり、図柄が少しでもぼやけたりすると、すぐに偽札だとばれてしまう。試行錯誤の結果、40年ごろにはすぐには偽物だとわからないような偽札をつくれるようになりました。偽札作戦は「杉工作」と呼ばれ、中国では「松機関」という秘密結社が担当していました。
2011年2月22日:偽札製造、40年ごろ「完成」 旧陸軍「登戸研究所」研究員・川津さんに聞く
45年4月、第三科は空襲を逃れて研究所ごと福井県に疎開しました。現地の製紙工場を借り上げましたが、機器の搬入がうまくいかず、そのまま敗戦を迎えました。第三科の研究員はその後、印刷機械を払い下げてもらい、名古屋市内で印刷会社を立ち上げました。私もしばらく携わり宝くじなどを刷っていたのですが、やはり「武士の商法」で経営が行き詰まったため、私は栃木県小山市の中学校の英語教員になりました。偽札造りについては周囲に話したことがなく、知っている人もほとんどいません。
2011年2月22日:偽札製造、40年ごろ「完成」 旧陸軍「登戸研究所」研究員・川津さんに聞く

戦後70年の企画展「来場者、通常の倍」

 登戸研究所は1950年に明治大学が敷地の約半分と87棟の建物を買い、生田キャンパスになりました。建て替えが進み、資料館が87棟のうち最後の1棟になっています。現在は明治大学の「平和教育登戸研究所資料館」として、秘密兵器の歴史を紹介するなど、様々な活動をしています。

 8月5日から開かれている展示「NOBORITO 1945 -登戸研究所 70年前の真実-」について、資料館の担当者は「通常の展示よりも問い合わせが多く、倍くらいの来場者が訪れています」と話しています。展示では当時、登戸研究所で研究されていた兵器について、その実態を豊富な資料を使って紹介しています。

 「戦後70年という節目もあり、秘密兵器に関わっていた登戸研究所への注目が高まっているようです。展示を通して新しい世代にも戦争の記憶を継承してもらいたいです」


敗戦で解散。50年に明治大学が敷地の約半分と87棟の建物を買い、生田キャンパスに。建て替えが進み、資料館が87棟のうち最後の1棟になった。
2013年9月27日:(?ふしぎ探検隊)旧陸軍登戸研究所 川崎市多摩区 風船爆弾・偽札造りまで:朝日新聞紙面から

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