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敗戦の責任って議論されたの? GHQに止められた「幻の調査会」
戦後、公的に敗戦の責任ついて議論された唯一の場だった「戦争調査会」。しかし、GHQの意向で消滅させられました。
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戦後、公的に敗戦の責任ついて議論された唯一の場だった「戦争調査会」。しかし、GHQの意向で消滅させられました。
敗戦直後、日本がなぜ戦争に負けたのかを議論するため、科学者や経済学者、報道機関の幹部らが集められた「戦争調査会」が作られました。戦後、公的に敗戦の責任について議論された唯一の場だったと言われていますが、連合国軍総司令部(GHQ)の意向で消滅させられた「幻の調査会」でした。
東京裁判は、日本の戦争指導者ら28人が連合国によって起訴されました。侵略戦争の計画から遂行までの「平和に対する罪」などが裁かれました。
一方、「戦争調査会」は敗戦直後の1945年11月24日、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣が戦争の教訓を考えるため発足させました。委員には、戦中の「反軍演説」で知られる衆院議員の斎藤隆夫、経済学者の大内兵衛(ひょうえ)、「八木アンテナ」を発明した科学者の八木秀次らに加え、開戦前の机上演習で「海上輸送の壊滅とソ連の参戦で日本は敗北する」と予測した「総力戦研究所」元所長、飯村穣らもいました。
調査会では、戦争を支える技術力などについても議論されました。そのために、学者や専門家が、幅広い分野から集められました。委員の中には、読売新聞の馬場恒吾(つねご)社長、朝日新聞の鈴木文四郎顧問、毎日新聞の阿部真之助顧問もいました。
しかし、「戦争調査会」は発足から1年を経たずにGHQの意向で消滅します。
米国と中華民国(現台湾)は調査会を容認していましたが、1946年6月ごろから旧ソ連や英連邦が「戦争責任は極東国際軍事裁判で裁くべきもの」「調査会の目的が次の戦争を避けるためか、次の戦争で負けないためなのか不明確」と懸念を表明。GHQの示唆を受けて吉田茂首相は9月30日に調査会を廃止しました。
福島大学の功刀(くぬぎ)俊洋教授(日本政治史)は、「戦争調査会」について「戦後、唯一、公的な場で敗戦の責任について議論する場だった」と指摘。「加害責任の視点が弱く、限界も多い調査会だが、結論まで存続できていれば、指導者の責任や過失を自らもっと明確にできた可能性はある」と話しています。
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