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敗戦の責任って議論されたの? GHQに止められた「幻の調査会」

戦後、公的に敗戦の責任ついて議論された唯一の場だった「戦争調査会」。しかし、GHQの意向で消滅させられました。

後に戦争調査会をつくった幣原喜重郎(前列中央)内閣の初顔合わせ。後列右から3番目が芦田均厚相、前列右端が吉田茂外相=1945年10月9日、国会議事堂前
後に戦争調査会をつくった幣原喜重郎(前列中央)内閣の初顔合わせ。後列右から3番目が芦田均厚相、前列右端が吉田茂外相=1945年10月9日、国会議事堂前
出典: 朝日新聞

目次

 敗戦直後、日本がなぜ戦争に負けたのかを議論するため、科学者や経済学者、報道機関の幹部らが集められた「戦争調査会」が作られました。戦後、公的に敗戦の責任について議論された唯一の場だったと言われていますが、連合国軍総司令部(GHQ)の意向で消滅させられた「幻の調査会」でした。

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科学者・経済学者も委員

 東京裁判は、日本の戦争指導者ら28人が連合国によって起訴されました。侵略戦争の計画から遂行までの「平和に対する罪」などが裁かれました。

 一方、「戦争調査会」は敗戦直後の1945年11月24日、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣が戦争の教訓を考えるため発足させました。委員には、戦中の「反軍演説」で知られる衆院議員の斎藤隆夫、経済学者の大内兵衛(ひょうえ)、「八木アンテナ」を発明した科学者の八木秀次らに加え、開戦前の机上演習で「海上輸送の壊滅とソ連の参戦で日本は敗北する」と予測した「総力戦研究所」元所長、飯村穣らもいました。

 調査会では、戦争を支える技術力などについても議論されました。そのために、学者や専門家が、幅広い分野から集められました。委員の中には、読売新聞の馬場恒吾(つねご)社長、朝日新聞の鈴木文四郎顧問、毎日新聞の阿部真之助顧問もいました。

新時局の態勢の中心となるべき人物を育成するという目的で開設された「総力戦研究所」の入所式。中央は近衛文麿首相=1941年4月1日
新時局の態勢の中心となるべき人物を育成するという目的で開設された「総力戦研究所」の入所式。中央は近衛文麿首相=1941年4月1日
出典: 朝日新聞
<東京裁判> 1946(昭和21)年5月から48年11月、東京・市谷で開かれた。日本の戦争指導者ら28人が、(1)アジア・太平洋への侵略戦争を計画・開始・共同謀議したとする「平和に対する罪」(2)捕虜虐待などの通常の戦争犯罪(3)政治的人種的迫害などの「人道に対する罪」を犯したとして、連合国11カ国によって起訴された。判決は(3)に言及せず、病死者らを除き、東条英機元首相ら7人が死刑、16人が終身禁固刑、2人が有期禁固刑となった。勝者の裁きとの批判がある一方、旧日本軍の虐殺や関東軍の謀略などが明るみに出たと評価する声がある。
2009年2月22日:判事に贈り物攻勢・ひそかに聞いたパル判事の思い 東京裁判、弁護人の法廷外秘話:朝日新聞紙面から
調査会委員には、戦中の「反軍演説」で知られる衆院議員の斎藤隆夫、経済学者の大内兵衛(ひょうえ)、「八木アンテナ」を発明した科学者の八木秀次らもいた。旧軍部から、開戦前の机上演習で「海上輸送の壊滅とソ連の参戦で日本は敗北する」と予測した「総力戦研究所」元所長、飯村穣らも加わっていた。事務局発足から委員任命までの約4カ月間に、戦犯容疑者59人の逮捕命令、GHQ憲法草案の公表など、議論の前提を変える出来事が続いた。調査会総裁の幣原首相は第1回総会冒頭で9条案に触れ、「世界は早晩戦争の惨禍に目を覚まし、結局私共と同じ(戦争放棄の)旗を翳(かざ)して遥(はる)か後方に踵(くび)いて(従って)来る時代が現れるでありましょう」と述べた。
(新聞と9条)非戦語った「幻の調査会」 敗戦直後にGHQの意向で消滅:朝日新聞デジタル
速記録は国立公文書館が所蔵。1946年3月に委員に任命された読売新聞の馬場恒吾(つねご)社長、朝日新聞の鈴木文四郎顧問、毎日新聞の阿部真之助顧問の順に、同月と4月の総会で発言していた。
(新聞と9条)非戦語った「幻の調査会」 敗戦直後にGHQの意向で消滅:朝日新聞デジタル

1年経たず消滅

 しかし、「戦争調査会」は発足から1年を経たずにGHQの意向で消滅します。

 米国と中華民国(現台湾)は調査会を容認していましたが、1946年6月ごろから旧ソ連や英連邦が「戦争責任は極東国際軍事裁判で裁くべきもの」「調査会の目的が次の戦争を避けるためか、次の戦争で負けないためなのか不明確」と懸念を表明。GHQの示唆を受けて吉田茂首相は9月30日に調査会を廃止しました。

幣原喜重郎首相と会談する吉田茂外相=1945年10月1日
幣原喜重郎首相と会談する吉田茂外相=1945年10月1日
出典: 朝日新聞
米国と中華民国(現台湾)は調査会を容認していたが、46年6月ごろから旧ソ連や英連邦が「戦争責任は極東国際軍事裁判で裁くべきもの」「調査会の目的が次の戦争を避けるためか、次の戦争で負けないためなのか不明確」と懸念を表明。GHQの示唆を受けて吉田茂首相は9月30日に調査会を廃止した。結局、独自の戦争検証の試みは報告書もなく、経過も公表されなかった。
(新聞と9条)非戦語った「幻の調査会」 敗戦直後にGHQの意向で消滅:朝日新聞デジタル

「唯一、敗戦責任を議論」

 福島大学の功刀(くぬぎ)俊洋教授(日本政治史)は、「戦争調査会」について「戦後、唯一、公的な場で敗戦の責任について議論する場だった」と指摘。「加害責任の視点が弱く、限界も多い調査会だが、結論まで存続できていれば、指導者の責任や過失を自らもっと明確にできた可能性はある」と話しています。

極東国際軍事裁判の東条英機被告=1947年11月
極東国際軍事裁判の東条英機被告=1947年11月
出典: 朝日新聞
戦争調査会についての論文を96年に執筆した福島大学の功刀(くぬぎ)俊洋教授(日本政治史)は「自分たちなりに敗戦を総括しようとした矢先にGHQから想定外といえる戦争放棄の9条案を突きつけられ、当時の支配者層も新聞も『活路はこれしかない』ことを全体に議論する場として戦争調査会が機能した側面がある。加害責任の視点が弱く、限界も多い調査会だが、結論まで存続できていれば、指導者の責任や過失を自らもっと明確にできた可能性はある」と話している。
(新聞と9条)非戦語った「幻の調査会」 敗戦直後にGHQの意向で消滅:朝日新聞デジタル

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