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「欲しがりません勝つまでは」11歳少女の最も有名な標語の真実
戦時中の標語「欲しがりません勝つまでは」。国民学校5年の少女が作ったとされるこの標語。実は、誰にも言えなかった「うそ」がありました。
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戦時中の標語「欲しがりません勝つまでは」。国民学校5年の少女が作ったとされるこの標語。実は、誰にも言えなかった「うそ」がありました。
戦時中の有名な標語「欲しがりません勝つまでは」。1942年(昭和17年)、大政翼賛会と新聞社が「国民決意の標語」を募集した「大東亜戦争一周年記念」の企画で、32万以上の応募の中から選ばれました。国民学校5年の少女が作ったとされるこの標語。実は、誰にも言えなかった「うそ」がありました。
標語を募集した企画では、入選10点、佳作20点が決まりました。入選作の一つが「欲しがりません勝つまでは」でした。作者として応募したのは、当時国民学校5年、11歳だった三宅阿幾子さんでした。「さあ二年目も勝ち抜くぞ」「ここも戦場だ」「今日も決戦明日も決戦」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などは、いずれも大人の作品で、三宅さんの標語は口調のよさから評判になりました。
実は、「欲しがりません勝つまでは」を考えたのは三宅さんの父の斌(あきら)さんでした。芝居の脚本や漫才の台本を趣味で書いていた父親が、娘の名前で応募していたのです。「入らないと思うが、もし入ったら『何もかも欲しがりません勝つまでは』としたのを、父親が直した、といっておけ」と、阿幾子さんはいわれていました。
表彰式の翌日、朝礼で校長先生の話がありました。「みなさんも三宅さんのようにがまんしましょうね」。三宅さんは、身が縮む思いだったそうです。それから、友だちに「欲しがりませんの三宅さん」といわれるように。三宅さんはそのたびに、「私じゃないの」と叫びたい気持ちを抑えていました。
入選作の発表後、学校に新聞社が取材にやって来ました。「あの標語、ひと晩考えたの。ふだん先生がおっしゃっている倹約のお話を標語にしただけなのに、当選なんて……」。記者の質問に、三宅さんはそう答えたそうです。
翌日の新聞に、三宅さんが「欲しがりません」と習字をしている写真と、短い鉛筆を使っている記事が載りました。
標語は、ひとり歩きを始めます。山上武夫作詞、海沼実作曲の歌にもなりました。三宅さんは、その歌をラジオで聞いて覚えました。街では、電柱に「欲しがりません」のポスターが張られるようになりました。
1985年1月9日、朝日新聞の記事は、三宅さんの戦後の姿を伝えています。
「欲しがりません」の標語を作ったのはうそでも、短い鉛筆の話は本当だったのですね。
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