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現場に行かず表現する写真家 その手法とは? ~アラ爆な人々
若手のアーティストらを紹介する連載の7回目。今回は写真家、鈴木諒一さんです。撮影はなんと、ほとんどが自宅といいます。
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若手のアーティストらを紹介する連載の7回目。今回は写真家、鈴木諒一さんです。撮影はなんと、ほとんどが自宅といいます。
「芸術は爆発だー」ということで、芸術界隈→アラウンド爆発→アラ爆。知名度の点で、爆発的に人気が出る前後という意味も込めています。今後の芸術界を担うかもしれないアーティストやキュレーターの方々に、テレホンショッキング形式で次の人を紹介してもらいながら会いに行きます。
今回は写真家の鈴木諒一さん。前回の編集者・川村庸子さんからご紹介いただきました。川村さん曰く、「知っている中で最もすばらしい文章を書く人」。
川村さんが運営する、展示やイベントのスペース「undō(運動/ウンドウ)」に作品を置いたこともあるそうです。鈴木さんのサイトを見ると、図鑑や本を撮影した作品が並びます。
図鑑や本のページを撮影した作品が多く、震災をテーマにした「家」も実は伊豆半島の岬から約30キロ先にある静岡の実家の方を撮影したもの。どうして現地へは行かないのだろうか。
「自分にとってうそのない形で表現したいから」と鈴木さん。「その場所に行くことが、その人にとって正確なアプローチであるとは限らない」と話す。旅行も実は好きで、旅先で写真も撮る。だが、それを作品にまとめたことはない。日常の中で読んでいる本に感動し、撮影する方が自然な流れなのだという。
鈴木さんは多摩美術大学芸術学部出身。高校卒業時は「何かをつくりたかったが、それが何かは決まっていなかった」。同じ学部の友人たちは小説を書きたい人やアートマネジメントをしたい人などさまざま、刺激を受けた。写真に出会ったのも、大学だった。授業でフィルムでの撮影と現像を経験し、撮影時に「決まった」はずの光がプリント過程でもう1度変更を加えられる「現実」を通らないといけないという事実が面白かったという。
そして卒業論文。写真について書きたかったが、写真論だけになると展開に乏しい。そこで見つけたのが、本の最初の章で表紙の写真について語られるアメリカの小説「アメリカの鱒釣り」(リチャード・ブローティガン著)だった。小説を題材に、本と翻訳との関係や、自分の写真論を自由に語った。この体験をきっかけに、物事に対し自分なりの接し方を探るようになったという。
写真もその「接し方」の一つだ。心打たれる作品に出会うと、それについてもっと知りたいと思い、考え悩んで写真を撮る。何か新しいものをつくり出すというよりは、評論のような形なのだという。だから、写真だけにこだわるつもりはない。最近は小説や映像にも挑戦しているそうだ。
どうして遠くへ行かないのか。しつこく聞いていると「何なのか自分でもわからない体験や発見を証明することが作品になる。そういう体験は日常の時間の中にもある」と鈴木さん。たとえば、叔父が事故で意識不明の重体になり、もうこれが最後かもしれないと言われ病院に駆けつけたら、生死の境をさまよっているはずの相手の方に形容しがたい生命力がある――。自分の理解をこえた、自分でもよくわからない体験や発見が何だったのかを探るうちに作品につながるのだという。
自分が感じた感情そのものを伝えたいわけではない。「知らない言葉で語られる物語でも、語る人の声色や周りの反応で伝わるものがある。そういうふわっとしたように見えて、実は普段取りこぼされてしまうものが充満した、とても『正確なもの』に作品を近づけていきたい」という。