エンタメ
水玉螢之丞さん、オタクへ愛あるツッコミ 異色企画「埼玉の恋」
水玉螢之丞さんが13日、肺がんのため55歳で亡くなりました。水玉さんが90年代、朝日新聞埼玉版に連載していた読者投稿企画「埼玉の恋」のために描かれたイラストを再掲し、早すぎるお別れをしのびたいと思います。
エンタメ
水玉螢之丞さんが13日、肺がんのため55歳で亡くなりました。水玉さんが90年代、朝日新聞埼玉版に連載していた読者投稿企画「埼玉の恋」のために描かれたイラストを再掲し、早すぎるお別れをしのびたいと思います。
ぐるぐる眼鏡にもじゃもじゃヘアの自画像。こよなく愛したSFやゲームなどに優しくも鋭いツッコミを入れてきた「いさましいちびのイラストレーター」こと水玉螢之丞(みずたま・けいのじょう)さんが13日、肺がんのため55歳で亡くなりました。水玉さんが90年代、朝日新聞埼玉版に連載していた読者投稿企画「埼玉の恋」のために描かれたイラストを再掲し、早すぎるお別れを惜しみたいと思います。
水玉さんは漫画「アッちゃん」「ベビー・ギャング」や童話「きかんしゃ やえもん」の挿絵で有名な故・岡部冬彦さんの娘として生まれました。兄は現実とフィクションの世界の兵器を自在に解説する軍事評論家の岡部いさくさん、姉は子どもの世界をユーモラスに描いた作品で知られる漫画家のおかべりかさん。幼少期を過ごした「浦和市の線路沿い、貨物列車が通ると揺れる家」は鉄道好きな冬彦さんの好みで選ばれた場所でした。
趣味多き表現者の家庭で育った少女は、やがて「専門学校中退、フリーターから11カ月の会社員生活を経て失業と同時にフリーのイラストレーターということに。パソコン雑誌、ファミコン雑誌、音楽誌などのやや深い水域に生息」(「埼玉の恋」初回掲載のプロフィル)という道を歩みます。ポップな線で愛らしく描かれたロックスターやゲームキャラクターらの横にスパイスの利いた書き文字を添える水玉スタイルのイラストは、本人の控えめな自己紹介とは裏腹に、いわゆる「オタク」だけでない幅広い層に受け入れられ、後年には読売新聞日曜版などにも連載されました。
小説家・杉元伶一さんとの共著「ナウなヤング」(1989年刊、岩波ジュニア新書)では、バブル期の若者をめぐる世相を、軽妙な文章とキュートなイラストで切り取って見せました。時代の空気をくみ取ったおしゃれなイラストでした。
のんきそうな自画像の印象とは少し違って、実際の水玉さんは小柄で繊細、ファッションセンスに秀でた才女でした。主たる活躍分野だったポップカルチャーとはもっとも縁遠いところにあると思われていた新聞の地域面での連載依頼に、「オタク」を自認していた水玉さんは少なからず戸惑われたのではないかと思います。オファーが来た時のことを「『びっくりした、朝日新聞から仕事きちゃったよ。自分を起用したりして、大丈夫なの?』と驚いていたのは覚えています」と夫で雑誌編集者の亨さん(49)は振り返ります。
サブカルの拠点・高円寺に居を移していた彼女がこの仕事を快く引き受けてくれたのは、ミスマッチを楽しむ広い心、そしてもしかしたら、幾重に屈折してはいても拭い去り難い郷土愛があったからではないか。今はそう想像するしかありません。
「読者から恋愛にまつわる投稿を募って水玉さんに紹介してもらおう」という突飛な企画は、少なからずの物議を呼びました。「意味がわからない」という戸惑いの投稿も含めて、1面や社会面に比べて目立たない地域面の存在感を考えると、想像以上の反響がありました。結果的に、「もっとやれもっとやれ」と多くの読者を大喜びさせた企画になりました。
92年10月、掲載枠の左下角に「L」の字をかぶせるという、新聞としてはあか抜けたレイアウトでスタートした「埼玉の恋」。最初は地域とかかわりのある恋愛話でスタートし、「埼玉に来た妻」たちの熱い論争が繰り広げられるなど看板通りの滑り出しでした。しかし磁石が砂鉄を引きつけるように彼女の元々のファンたちがオタクな恋や二次元恋愛などについて投稿を寄せるようになり、次第に独自の進化を遂げていきました。「クレヨンしんちゃん」の故・臼井儀人さんとの春日部対談を企画したこともありました。
水玉さん自身は「オレ」という一人称で、オタク談議に走りがちな投稿者に対して恋愛の効用を説くこともありました。
「周囲がどう思ってたっていい、オレは今の自分の気持ちが大事なんだ、っていう、熱く激しい思いこみが人に与えるものってあるでしょ。オレはオタクと呼ばれる立場として、そういう気持ちをすごく大切に考えてるんすよ、実は。対象が人とモノって違いはあっても、『好きだ、好きなんだッ』っていう思いだけで明日も元気に起きられる、みたいなさ、そういうシアワセって、何ものにもかえがたいものだと思ってるから」(95年10月)
最終回(96年3月)のイラスト内書き文字は、最初のTVシリーズが終わったばかりの「新世紀エヴァンゲリオン」の感想を求めるという内容でした。インターネットの一般への普及が始まり、「オタク」が表社会の市民権を得る時代の幕が開けようとしていた、そんな時代を象徴するラストでした。
水玉さんは病と闘いながら仕事を続けていました。ぐるぐるメガネの自画像は、実は内耳の疾患でめまいなどを引き起こす難病・メニエール病にかかった自分を戯画化したものでした。「『埼玉の恋』を始めたのは、ちょうど発症した頃でした」と亨さん。紙面の都合でたびたび変わる掲載日、独自の進化を遂げる企画の方向性など、本業にはない負担をかけてしまったのにも関わらず、闘病の苦しさが原稿に影を落としたことは一度もありませんでした。
「埼玉の恋」のイラストについて亨さんは「まだ(製図用万年筆の)ロットリングと薄墨マーカーを使っていた時代で、絵柄も自画像もとても懐かしい。デジタル作業になる前だから、机じゃなくて、居間のちゃぶ台で仕事をしていた姿を思い出します」と仰っていました。
数年前、イラストにもたびたび登場していた黒い飼い猫を19歳で亡くし、昨年5月からは入院生活を送っていました。「向こうで猫と一緒に遊んでいてくれればいいな」(亨さん)。オタクの心情を誰よりもよく理解し、その魅力を先駆けて伝えた才能の早世を深く悼みたいと思います。