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中日の大島、契約更改が難航 相手は「調停」の先輩、落合GM・・・
中日の大島洋平外野手の契約更改交渉が注目を集めています。落合博満GM就任以降、初めて更改を保留。球団と折り合いがつかない場合に持ち込まれる「調停」の可能性も出てきました。実はその調停、日本人で初めて求めたのは落合GMでした。
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中日の大島洋平外野手の契約更改交渉が注目を集めています。落合博満GM就任以降、初めて更改を保留。球団と折り合いがつかない場合に持ち込まれる「調停」の可能性も出てきました。実はその調停、日本人で初めて求めたのは落合GMでした。
中日の大島洋平外野手の契約更改交渉が注目を集めています。落合博満GM就任以降、初めて更改を保留。球団と折り合いがつかない場合に持ち込まれる「調停」の可能性も出てきました。実はその調停、日本人で初めて求めたのは落合GMでした。
大島選手は、打率はプロ5年目で最高の3割1分8厘で年間186安打もリーグ3位の成績。28盗塁はリーグ2位でした。しかし、9千万円の希望に対し、球団提示額は昨年より1775万円増の7400万円でした。
大島選手は昨年、野球協約で決められた減額制限いっぱいの25%減の5625万円を受け入れていました。今年は本人も納得する成績を残しただけに、球団の提示には納得できなかったようです。結果、落合博満GM就任以降、初めての更改保留となりました。
選手の年俸を巡っては、過去にも調停に持ち込まれた事例があります。
調停は、球団と選手の契約交渉がまとまらなかった場合、日本プロ野球組織(NPB)のコミッショナーに両者が申請。NPBの調停委員会が両者の希望を聴取し、調停額を示します。
実は落合GMも選手時代に調停を経験しています。1990年のオフ、中日にいた落合GMは、2億7千万円を希望しましたが球団側は2億2千万円を提示。調停の結果、球団側の提示額通りの2億2千万円になりました。日本人選手として初の調停でした。ちなみに、日本人選手の「2億円プレーヤー」も初めてでした。
契約更改では、球団の台所事情も関係してきます。落合GMの調停でも球団の経営状況が取り上げられました。その時の調停委員の1人である原野パ・リーグ会長は「ざっくばらんに言って、球団経営は赤字のところが多い。球団の経営が成り立たなければ、選手も困るでしょう」と発言しています。また、中日球団の伊藤代表は「経営状態から見て、実は2億円が精いっぱいなんです。球団提示の2億2000万円は本当はデッドラインを越えているんです」と訴えていました。
今年、中日は2年連続のBクラスで観客動員も伸び悩みました。大島選手の契約更改でも、球団の経営状況が影響を与えている面は少なくありません。
落合GMの調停があった1990年オフの時代は、条件付きで移籍の自由を認めるフリーエージェント(FA)制度はありませんでした。しかし、落合GMのように自分たちの待遇について球団に意見をする選手が増え始め、1993年にはFAが導入されました。FA導入の背景には、同じ1993年に始まったサッカーJリーグの存在も大きかったと言われています。選手側は待遇改善のためストライキをする可能性もありました。開幕したばかりのJリーグにファンが流れてしまうのを防ぐため、FAが導入された面もありました。
一方、FA導入は、資金力による戦力強化がしやすい制度にするため、当時の人気球団であった巨人・西武が球界に働きかけた結果とも言われています。
■過去の調停の事例
1973年 マックファーデン(神)
900万円(本人希望額)
↓
600万円(球団提示額)
↓
600万円(調停額)
1991年 落合博満(中)
2億7000万円(本人希望額)
↓
2億2000万円(球団提示額)
↓
2億2000万円(調停額)
1993年 高木豊(横)
1億263万円(本人希望額)
↓
9330万円(球団提示額)
↓
9840万円(調停額)
1996年 野村貴仁(オ)
6500万円(本人希望額)
↓
3900万円(球団提示額)
↓
3900万円(調停額)
1998年 ソリアーノ(広)
2100万円(本人希望額)
↓
580万円(球団提示額)
↓
580万円(調停額)
2001年 下柳剛(日)
1億5000万円(本人希望額)
↓
1億3750万円(球団提示額)
↓
1億4000万円(調停額)
2011年 涌井秀章(西)
2億7000万円(本人希望額)
↓
2億2000万円(球団提示額)
↓
2億5300万円(調停額)