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「日本の魂でなければならない」 最多優勝決めた大横綱・白鵬の言葉
白鵬が大横綱・大鵬に並ぶ史上最多32度目の優勝を決めました。不祥事で揺れた大相撲を支え、「日本の魂でありたい」と心技を鍛え続ける白鵬の言葉と足跡を紹介します。

横綱・白鵬が昭和の大横綱・大鵬に並ぶ史上最多32度目の優勝を達成しました。15歳でモンゴルから来日。日本の国技・相撲を愛し、「横綱として、いかに生きるか」を自らに問い、「日本の魂でなければならない」と心技を鍛え続ける平成の大横綱の言葉と足跡を紹介します。
「大鵬親方との約束です」

優勝を決めた白鵬の目には涙がありました。「角界の父」と慕っていた大鵬の姿が浮かんだのでしょう。
昨年1月。初場所5日目の朝、体調を崩した大鵬を白鵬が自宅に見舞った。同じ高みである「優勝32度」への志を伝える白鵬に、大鵬はこう言った。「努力次第だよ。そのかわり、いい加減なことはするな」。それが遺言となった。2日後、大鵬が亡くなった。
あれから8度の優勝を重ねた白鵬は場所前、「32度目」への思いを問われ、こう語った。「大鵬親方との約束です」

大鵬引退から43年。不可能とまで言われた大記録に追いついた白鵬は「褒めてくれると思う」と涙を流し、「この優勝に恥じぬよう、今後も一生懸命頑張りたい」と決意を新たにしました。まだ29歳8カ月。記録はまだまだ伸びそうです。
平成の大横綱の道を歩む白鵬ですが、その土俵人生は最初から順風満帆だったわけではありません。
「逃げたら父の恥になる」

2000年に15歳で来日したときは175センチ、68キロで力士としては細身でした。受け入れてくれる部屋がなく、荷物をまとめて帰国する前夜に、故郷の先輩・旭鷲山の口利きでやっと入門が決まったほどです。
体を大きくするため、入門から3カ月はひたすらちゃんこを食べる生活。吐いても先輩から「この野郎、食わないか」と怒鳴られ、詰め込まれたそうです。2001年の初土俵時には180センチ、80キロに。「逃げ帰ろうと思ったけど、お父さんの恥になる」と、厳しいけいこに必死で耐えたと言います。
その父はモンゴル相撲の大横綱で、レスリングでモンゴル初の五輪銀メダリストになった国民的英雄。その血を受け継いだ白鵬は体が大きくなるにつれ、メキメキと力をつけ、2004年に新入幕、その2年後に昭和以降では歴代4位の若さとなる21歳で大関に昇進しました。このとき、192センチ、152キロ。父は「あんなに小さかった子が、夢みたいだ」と泣いたそうです。

「横綱として、いかに生きるか」
2007年の夏場所で全勝優勝し、22歳で横綱へ。昇進の際の口上では「横綱の地位を汚さぬように精神一到を貫き、相撲道に精進致します」述べました。精神一到とは「精神を集中して物事に取り組めば、どんな難しいことでもできないことはない」という意味。両親と並んで会見し、「一つでも恩返しができたかな」と親孝行ぶりも見せていました。

当時のライバルは同じくモンゴル出身の朝青龍。2010年に暴行問題などから朝青龍が引退した際には「同じモンゴル出身で、目標とする力士だった」と涙ながらに話しました。この年には、「昭和の角聖」双葉山の69連勝に迫る63連勝を記録。平成の大横綱の道を歩み始めましたが、2011年に多数の力士が関与する八百長事件が発覚し、角界は大混乱に。白鵬はその中で、横綱としての責任をより深く自覚するようになります。
3カ月後、日本相撲協会は東北の被災地を巡回慰問した。「大地を鎮める」とされる、横綱の四股。「よいしょ」のかけ声。そのとき、土俵入りでせり上がる白鵬の目に、何十人もの被災者の姿が飛び込んだ。
家を、街を、親を、子を失った人たちが、避難所で無慈悲な労苦を背負わされている人たちが、自分を、拝んでいた。
「生涯、忘れられない」と語る光景だった。
瞬間、自問したという。
横綱とは、何か――。
「横綱とは、日本の魂なのではないか。私は、日本の魂でなければならないのではないか」
以来、「横綱として、いかに生きるか」を自らに問いかけ続けている。

32度目の優勝に大鵬の夫人・納谷芳子さん(67)はこう言いました。
白鵬は32度目の表彰式で、再び「魂」という言葉を口にしました。