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高倉健さん「俳優をやめようと思うたび、いい監督や作品に出会った」
「僕の俳優人生はコンプレックスから始まったですよ」。亡くなった高倉健さんの貴重なインタビューから、本人の言葉やエピソードをお届けします。
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「僕の俳優人生はコンプレックスから始まったですよ」。亡くなった高倉健さんの貴重なインタビューから、本人の言葉やエピソードをお届けします。
亡くなった高倉健さんを密着インタビューした人はそう多くはいません。健さんの代表作の一つ「鉄道員(ぽっぽや)」(1999年)の撮影での同行取材をきっかけに、1本のルポ記事を週刊誌アエラに書き上げたのが、フリーライターの村尾国士さん(72)です。「健さんは、『日本の男』を演じるよう、宿命づけられた人。そんな映画スターはもう、他にはいませんよ。取材した後で録音テープを聞いてもね、健さんが何もしゃべらない時間のほうが長くてね」。
アエラ1999年6月7日号の記事「現代の肖像 俳優 高倉健」を元に、健さんの言葉とエピソードをご紹介します。
1931年2月16日、健さんは福岡県の遠賀川流域の炭鉱町・中間市に生まれました。本名は小田剛一。父は若松港の港運会社勤務で、地元の宮相撲の横綱も務めた人でした。母は元教師。教育熱心、しつけの厳しい人だったといいます。
県下の名門・旧制東筑中学以来の親友で、弁護士の敷田稔さんは高倉少年についてこんな風に回想しています。
「あの地方は全国で唯一、川筋と呼ばれまして、伝統的に男っぽい雰囲気なんです。喧嘩は日常茶飯事で義理人情を重んじる、彼もその川筋者の典型でしたね。裏表がなくひたむきで、こいつには絶対だまされないと子供の頃から信じられましたよ。一方でひどく人見知りするタイプで、人前で演技する俳優になるなど、まったく考えられませんでしたね。英語が抜群で将来は貿易商になりたいと言ってましたよ」
健さんは明治大学を卒業して九州に帰り、しばらく父親の仕事を手伝っていました。しかし、「このままじゃ埋もれてしまうと思ったんですね。それに、東京に好きな女の子がいまして、彼女と一緒になりたくて家出したんです」
東京で有り金を使い果たし、布団まで質に入れた生活。困り果てて、大学の恩師に紹介された芸能プロダクションに就職するため、面接に行った喫茶店でたまたま居合わせた東映の専務に「俳優にならないか」と声をかけられたのが、すべての始まりでした。
ワラをもつかむ思いで「はい」と答えると、「明日、カメラテストだ」。
「つぎの日、撮影所で顔にドーランを塗られてね。何か身を落としたみたいで、涙が出ましたよ」
東映第2期「ニューフェース」に合格、24歳で俳優座養成所に預けられました。ところが、何をやってもサマにならず、教室中が笑い転げるほど。ついに指導教師にはこう言われたそうです。「授業にならないからあなたは見学してなさい。俳優になるのはあきらめたほうがいい」
「屈辱ですよね、そりゃ。僕の俳優人生は、このコンプレックスから始まったんですよ。その思いはずっと続いてて、いまだに役作りができませんね」
当時の東映は時代劇全盛期で、現代劇のスターが不足していました。そこで身長180センチ、精悍な風貌の健さんに目がつけられ、1956年にいきなり主演に抜擢デビュー。同じ年には、日活から石原裕次郎がデビューしています。
またたくまにスターに駆け上がった石原にくらべ、健さんはしばらく二流の青春スター。役どころも美空ひばりの相手役や二枚目半的なものばかりでした。映画1本のギャラが手取り1万8千円で、当時のサラリーマンの平均月収ほどでした。
ある日、横浜でロケをしていたとき、取り巻いていた女の子たちが、一斉に別の方向へ駆け出します。近くで裕次郎のロケが行われていたのが原因でした。
「同じ俳優なのに、どうしてこんなに違うんだろうってショックでしたねぇ。日本一高いギャラをとれる俳優になりたいと思ったのは、その頃でした」
この話を取材した村尾さんは「演技コンプレックスをかかえたまま、日本一の俳優をめざす。矛盾しているが、高倉が生来奥に秘めている激しい何かがそれを求めたのだろう」と書いています。
この後、健さんは「俳優は見せ物。お客さんを満足させる肉体を作らなくてはならない」とジムに通い始めます。そして、撮影現場では「与えられた役を好きになる、その一点にしがみつく」。不器用だからこその精進、この覚悟が最初に表れたのが1964年の映画「ジャコ萬と鉄」でした。
「零下一六度の湖にフンドシひとつで飛び込んだんですよ。土地の人に『死ぬぞ』って言われましたね。あとで考えると、間尺に合わないですけど……気が入ったというか、何かが成立したんですね」
同じ年に「日本侠客伝」、さらに翌年「網走番外地」「昭和残侠伝」と続いた仁侠映画で、高倉健の名は一気に高まり、国民の間に「健さん」が生まれます。映画館は満員の客でドアが閉まらず開けたまま上映、深夜映画に押し寄せた観客は「待ってました、健さん!」とスクリーンに声をかけました。デビューから8年でようやく花開き、健さんは前代未聞のブームとともに時代のヒーローとなっていきます。
しかし1972年には仁侠映画のブームが去り、俳優業に悩んだこともあったそう。酒も飲まず、他のスターのようにマージャンやクラブ遊びも全くしないストイックな性格でしたが、国民が求めるスクリーンの虚像「高倉健」に、あえて自らを合わせようと生きた・・・健さんを知る周囲にはそんな見方もあります。
「僕は俳優をやめようと思ったことが、何度もありましたよ。映画俳優なんて思われるのをやめると楽になるなぁ……、そう思うんだけど、そういうとき、いつもいい監督やいい作品に出会うんですよね」
1977年、森谷司郎監督「八甲田山」、山田洋次監督「幸福の黄色いハンカチ」に出演。「八甲田山」では3年間ほかの仕事を一切せず、不動産を売ってまで打ち込んで、映画は配給収入の新記録を作りました。「幸福の黄色いハンカチ」では、東映時代には縁のなかった映画賞を総ナメにし、名実ともに日本一の俳優となりました。それ以後、名作や大作に相次いで出演し、私生活を一切語らず見せない孤高の大スターの評価が定まっていきました。
「鉄道員」の撮影時の取材で、北海道・富良野などの現場に何度も足を運んだ村尾さんによると、健さんは撮影中はずっと立ったままだったそうです。「当時は健さんは70歳近いお年でしたけど、座っているのを見たことがありません。少なくとも周囲に人がいるときは絶対に座らなかった。話してみると、非常に気取らない雰囲気なんですが、どこか一線を守るというか・・・他の俳優では絶対に追随できない、『健さん』独特の存在感がありました」
(たかくら・けん)
1956年、映画「電光空手打ち」「流星空手打ち」の連作で主演デビュー。高校時代はボクシング、明治大学では相撲や合気道で鍛えた体格で、任俠映画の「健さん」として一時代を築いた。「幸福の黄色いハンカチ」「鉄道員」などで、寡黙で一本気な“日本の男”を演じ続けた。1959年に歌手・江利チエミと結婚したが、71年に離婚、江利は83年に他界した。2013年、文化勲章受章。本名・小田剛一(おだ・ごういち)。10日、悪性リンパ腫のため、都内の病院で死去。83歳。最後の作品となった2012年の「あなたへ」まで、生涯に205本の映画に出演。