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ソフトバンク日本一 注目の工藤公康さん、とっておきの話
ソフトバンクの秋山幸二監督の後任として確実視されている工藤公康さん。高校時代の武勇伝から移籍にまつわる逸話、震災後に見せた行動など、工藤さんにまつわるエピソードをまとめました。
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ソフトバンクの秋山幸二監督の後任として確実視されている工藤公康さん。高校時代の武勇伝から移籍にまつわる逸話、震災後に見せた行動など、工藤さんにまつわるエピソードをまとめました。
プロ野球ソフトバンクの秋山幸二監督の後任として確実視されている工藤公康さんは、48歳で現役引退を表明するまで、西武やダイエーなど4球団で活躍しました。高校時代の武勇伝から移籍にまつわる逸話、震災後に見せた行動など、工藤さんにまつわるエピソードをまとめました。
まずは工藤さんの略歴から。
・愛知県出身の51歳
・名古屋電気高(現・愛工大名電高)に進み、3年生だった1981年の夏の甲子園でノーヒット・ノーランを達成
・ドラフト6位で西武に入団
・西武→ダイエー(現ソフトバンク)→巨人→横浜(現DeNA)→西武と渡り歩き、計11度の日本一に貢献
・西武・ダイエー・巨人で日本一を経験し、「優勝請負人」と呼ばれる
・実働29年で通算224勝142敗3セーブ
・現役引退後は野球評論家として活動
・今春から筑波大大学院の人間総合科学研究科でトレーニング方法などを学んでいる
頑固で野球好きな父の「ご機嫌取り」で始め、プロ入りまで「生きるためのすべ」だったといいます。
高校3年の夏、愛知大会5回戦で打席に立っていた工藤さんは右目にデッドボールを受けました。
医者からは、すぐに病院に行くように言われたものの、最後の夏をこのままでは終われないと、投手としてマウンドに立ち続けました。
その試合は無失点で勝利し、勝ち進んで甲子園出場を果たしました。
プロに入って最初の球団は西武でした。
「番長」清原和博さんや「ナベQ」こと渡辺久信さんといったメンバーとともに黄金期を築きました。
86年には、この3選手が「86日本新語・流行語大賞」の流行語金賞を受賞。
その流行語とは「新人類」でした。
無気力でだらしない、という新人類のイメージをはねのけるのに貢献した、というのが受賞理由です。
94年にはFA宣言をしてダイエーに入団。
この縁が、のちのちのホークス監督就任へとつながっていきます。
5年後の99年、工藤さんの活躍もあってダイエーが日本一に。
パ・リーグMVPにも選ばれましたが、直後に巨人への移籍が決まります。
福岡では残留を求めてファンが署名を集め、自宅に届けました。
翌年には巨人とダイエーが日本シリーズで対戦。
工藤さんは「愛弟子」である捕手の城島健司さんと対決します。
ダイエー時代、工藤さんはイニングごとに城島さんにサインの意図を問いかけたそうです。
「試合が終わって時間がたってから言っても遅い。感覚がずれる」との理由からでした。
城島さんは一軍に抜てきされた97年から3年間、そうやって工藤さんにたたき込まれたそうです。
そんな師弟対決の結果は、城島さんに軍配が上がりました。
低めの球をとらえ、左翼スタンドにホームランを放ったのです。
巨人から横浜へ移り、最後は再び西武へ戻ります。
背番号は「55」でした。
生まれたのが5月5日であること、子どもが「まだまだゴーゴー」と言ってくれたことが理由ですが、もう一つ込められた思いがありました。
ダイエーで同僚だった故・藤井将雄投手の背番号15です。その5番を背負いたいという思いがあったのです。
藤井さんは99年、26ホールドで最多ホールドのタイトルを獲得。
しかし、その時すでに肺がんに侵されていて、00年10月に31歳でこの世を去りました。
工藤さんが99年に巨人に移る際、藤井さんに声をかけられたそうです。
「行かないでくださいよ、工藤さん」
この言葉が忘れられない工藤さんはこう話しています。
「病気のことを知っていれば、巨人に行かなかったかもしれない」
00年の日本シリーズでダイエーと戦った際、工藤さんは藤井さんの遺骨をしのばせて先発しました。
西武から戦力外通告を受け、所属先が決まっていなかった2011年12月。新規参入するDeNAの監督就任を要請されました。
就任は確実視されていましたが、編成権をめぐる対立から破談に。
それから数日後、自身のブログで現役引退を表明しました。
「大変心苦しく、つらい決断ではありますが、私、工藤公康は『引退!』をすることにしました」
監督就任をめぐり話題になったこの年は、東日本大震災が起こった年です。
工藤さんは震災3カ月後から被災地で野球教室を開き、参加した球児全員の打撃投手を務めてきました。
西武に戦力外通告を受け、復活に向けてトレーニングを積んでいた時期です。
軟式球とはいえ、1日100人を相手にする負担は大きいものでした。
その年の末、48歳で現役を退いた工藤さん。
引退から1年ほど前のインタビューで、限界について問われ、こう答えています。
これから指導者としての道を歩む工藤さん。次々と立ちはだかる壁を軽やかに乗り越える姿が楽しみです。