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佐村河内氏のゴーストライターだった新垣隆氏が告白「自分は道化師」

佐村河内守氏のゴーストライターだったことを告白した作曲家の新垣隆氏が、インタビューに応じた。「転落」してしまった理由や公表したきっかけ、現在の生活などについて語った。

新垣隆さん(左)と佐村河内守さん
新垣隆さん(左)と佐村河内守さん 出典: 朝日新聞
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 「耳が聞こえずに交響曲を書いた現代のベートーベン・佐村河内守」のゴーストライターだったことを告白した作曲家の新垣隆氏(44)が、インタビューに応じた。記者会見での「告白」から半年が過ぎ、現在はテレビのバラエティー番組に出演したり、本業の作曲でも新作上演をこなしたりと、予定が目白押しという。新垣氏は「今の私は道化師そのもの。へんてこなキャラクターとして世間に認知されてしまった」と苦笑する。
(朝日新聞デジタル編集部 戸田拓)

 新垣さんは桐朋学園大で現代音楽の第一人者・故三善晃さん(昨年10月死去)らに師事、作曲とピアノ演奏で頭角を現した。演奏中の人が資料を読み上げたりする実験的作品などを発表してきたが、映画音楽の編曲で佐村河内氏と知り合い、彼の名前で作品を発表することを持ちかけられたという。

 「それが次第にエスカレートしていくのですが、まあクラシック音楽の作曲家という自分の本業には影響ない範囲で収まるだろう、という甘い考えがあった」と振り返る。佐村河内氏には「耳が聞こえることは絶対口外するな」「そうしたらすべておしまいだから」と口止めされていたという。

「全聾(ぜんろう)の作曲家」をかたっていた佐村河内守氏=2010年4月4日
「全聾(ぜんろう)の作曲家」をかたっていた佐村河内守氏=2010年4月4日 出典: 朝日新聞

 今年2月、18年にわたって佐村河内氏を代作していたことを週刊誌で告白、会見を開いた。告白に踏み切ったきっかけは、昨年3月に放送されたNHKスペシャル(3月31日放送の「魂の旋律~音を失った作曲家~」)だったという。

 佐村河内氏が東日本大震災の被災地を訪れて演奏会を開く様子などが紹介されており、それを放映後に見て「もう無理だ」「これ以上やったら大変なことになる」と思った。

会見する佐村河内守氏=2014年3月7日、東京都港区、上田潤撮影
会見する佐村河内守氏=2014年3月7日、東京都港区、上田潤撮影 出典: 朝日新聞

 世間に暴露したことで、「自分も『共犯者』。もう音楽活動はできなくなるかもしれない」と覚悟した。
 
 だが予想に反し、現代音楽以外の分野で出演依頼が相次いだ。テレビでしどろもどろの受け答えを出演者にいじられる一方、ピアノの演奏では親しみやすいフレーズを即興で奏でて喝采を浴びる。7月にネット上で公開された「交響曲HARIKOMI」は再生回数20万回を超えた。

【リンク】新垣隆作曲 交響曲「HARIKOMI」

 期せずして“注目作曲家”になったことについて「佐村河内のポジションに新垣が代わっただけ、という厳しい指摘もあった。問題を起こしたのは事実、それと一生向かい合うしかない」と語る。

 「現代」を表現しようと、音楽と言葉の関係について試行錯誤を続ける。山田耕筰以来の「日本語を西洋音楽で表現する」との課題に挑むなど、師の三善さんらが築いたクラシック音楽の系譜を引き継ぐ一人でありたいと願う。

多くの報道陣が集まる中、会見する佐村河内守氏=2014年3月7日、東京都港区、上田潤撮影
多くの報道陣が集まる中、会見する佐村河内守氏=2014年3月7日、東京都港区、上田潤撮影 出典: 朝日新聞

 あれだけの騒ぎを起こしておきながら、今後も音楽家であり続けたい、という態度は許されるものなのか。

 新垣氏はそうした指摘について「反論できない。甘んじて受ける」とする。しかし一方で、「非常にふてぶてしく、怒られながら音楽を続けています。許されるかどうかは別として、自分がコンサート活動などを続けることはどうか認めていただきたい」と話す。

 「今後は自分の名前で、できることを何でもやる。求められる役割を引き受けるのも、責任だと思う」。「道化師」の“償いと挑戦”は続く。

「多くの方の応援で音楽を続けることができ、感謝している」と話す新垣隆さん=戸田拓撮影
「多くの方の応援で音楽を続けることができ、感謝している」と話す新垣隆さん=戸田拓撮影 出典:朝日新聞デジタル

新垣隆さんインタビューの詳報はこちら(朝日新聞デジタル)
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