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奇跡の返球、サヨナラボーク…名勝負から始まった3つの「その後」
1996年決勝 松山商の奇跡のバックホーム、1998年宇部商 サヨナラボーク、1994年決勝 佐賀商の満塁弾。名勝負を演じた球児たちが背負ったものは、勝敗に関わらず大きかったようです。「その後」を追った3つの物語。

1996年松山商 奇跡のバックホーム、1998年宇部商 サヨナラボーク、1994年佐賀商 決勝での満塁弾。名勝負を演じた球児らが背負ったものは、勝敗に関わらず大きかったようです。「その後」を追った3つの物語。
「最低でも犠飛」 顔面すれすれに返球が
先日のアメトーーク!「高校野球大大大好き芸人」でも紹介され、宮迫さんが目を点にした「奇跡のバックホーム」。1996年夏の甲子園決勝10回裏。熊本工1死満塁で松山商の右翼手がありえないほどの好返球でタッチアップを阻んだ場面です。本塁を突いた三塁走者は星子選手。

その時だった。顔面すれすれを返球が横切り、捕球のために手を伸ばした捕手のミットが、自分のヘルメットに当たった。「アウト、アウト!」。球審の声に空を仰いだ。熊本工は続く11回に3点を奪われ力尽きた。
冗談いたたまれず…野球から離れた心
卒業後は大阪の企業チームへ。そこでも有名人だった。「お前、あの時の三塁走者だろ」。言われるたび野球から気持ちが離れていくのを感じた。けがもあり、2年で退部して会社も辞めた。
語り合い 吹っ切り「たっちあっぷ」開店
その後、星子さんは夜の世界へ。バーなどを開けては閉める生活が10年以上続いた。

話は弾み、酒も進んだところで矢野がつぶやいた。「あの話、おれたちに一生ついて回るよな」。実は矢野も苦しんでいた。元々先発メンバーではなく、あのプレーの直前に交代で右翼手に入り、「思い切り投げたら、たまたまできただけ」。大学や会社で人と会うたび、「すごいやつ」と期待されるのがつらかった。
星子も、自分はあの場面から逃げられないことを改めてかみしめて言った。「名刺を渡さなくても覚えてもらえる。お前のおかげで商売できてるんだ」

星子さんはこの再会を機に、高校野球にまつわる店のオープンを決意。5月に熊本市内にスポーツバーを開いた。店名は「たっちあっぷ」
サヨナラボーク 5万人が目撃
これも語り継がれている「サヨナラボーク」。1998年夏の甲子園2回戦、宇部商と豊田大谷との試合での出来事です。

阿久悠さんから激励の詩
高校野球を愛した作詞家、故・阿久悠の心も動かしたあの試合。「きみ」と語りかけた相手は、山口・宇部商の元エース藤田修平(32)。阿久悠から贈られた詩「敗戦投手への手紙」は、藤田の自宅玄関に今も飾られている。
藤田は翌年もエースだったが、宇部商は山口大会準々決勝で敗退。その後に初めて、300通の手紙が入った段ボール箱を渡された。夏休みに自宅の居間で寝転がりながら、すべての文面に目を通した。「2年生だからまだチャンスがある」「また甲子園で待ってます」。1年遅れで届いたそんな激励の数々が切なかった。

「元気でやってます」 球審「感無量」
そんな藤田さんがずっと気にかけていたのは、大舞台で厳然たる判定を下した球審のことでした。

そんな2人を阿久悠の詩が、ふたたび引き寄せた。昨年7月にあった明治大学・阿久悠記念館の来場者3万人記念企画。2人はゲストとして招かれ15年ぶりに再会した。「元気でやってますって伝えたくて……」という藤田に、林は「感無量」とだけ漏らして涙した。林に思いを伝え、肩の荷が下りたという藤田は、「あのボークで自分に責任感が生まれた。今となっては良かったことだと思える」と言い切る。
9回2死満塁弾 逃した優勝
樟南は2回裏で3点先行し、佐賀商は6回表で同点に追いつく。樟南はその裏で1点勝ち越したが、粘る佐賀商は8回表に再び追いついた。そして4―4で迎えた9回表、2死満塁から打たれた劇的な満塁本塁打は、夏の甲子園決勝では初だった。佐賀商は8―4で県勢で初めて優勝旗を手にした。
当時の樟南バッテリーは福岡投手と田村捕手。いまでも連絡を取り合う仲だそうです。

「もっと上へ」プロを経てスカウトへ

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