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サンシャインシティは「巣鴨プリズン」だった 公園に残る石碑は語る
池袋のランドマークにもなっているサンシャインシティ。SNSでは、ここがある歴史的な出来事の舞台だったことがたびたび話題になります。サンシャインシティに隣接する公園には、「永久平和を願って」という文字が刻まれた石碑があります。ここはかつて、太平洋戦争で「戦犯」として裁かれた人たちが処刑された「巣鴨プリズン」だったのです。私たちの身近に眠る、戦争の痕跡をたどります。(朝日新聞デジタル企画報道部・武田啓亮)
JR池袋駅東口を出て、まっすぐ250メートルほど歩くと、巨大な高層ビルが左側に見えてきます。
池袋のランドマーク、サンシャインシティの中核となっている高層複合ビル「サンシャイン60」です。
猛暑日のこの日も、多くの人でにぎわっていました。
すぐ隣には、木々に囲まれた区立の「東池袋中央公園」があります。
強い日差しを避けるように、買い物の大きな荷物を持った人や、スケートボードを抱えた若者が木陰で休憩していました。
この公園の隅には、小さな石碑が置かれています。
近づいてみると石碑には「永久平和を願って」という文字が刻まれていました。
石碑の裏側に回ると、かすれてやや読みづらくなっていますが、そこにはこんな説明が記されていました。
「第二次世界大戦後、東京市谷において極東国際軍事裁判所が課した刑及び他の連合国戦争犯罪法廷が課した一部の刑が、この地で執行された」
この場所は、かつて処刑場だったのです。
日本が太平洋戦争で敗れた直後の1945年11月、連合国軍総司令部(GHQ)は、この場所にあった東京拘置所を接収、「戦犯(戦争犯罪人)」を収容する刑務所を開設しました。
「巣鴨プリズン」と呼ばれ、旧日本軍関係者を中心に、多いときには2000人近くが収容されていたそうです。
東条英機元首相ら7人がA級戦犯として処刑され、BC級戦犯も53人が処刑されました。
極東国際軍事裁判では、市民の虐殺など「人道に対する罪」にあたるとされたC級、捕虜虐待など通常の戦争犯罪にあたるB級、そして、侵略戦争で「平和に対する罪」を犯したとされるA級の3つがあり、この区分は罪の重さとは無関係です。
旧日本軍は戦時中、捕虜の扱いを定めたジュネーブ条約に反して、連合国側の捕虜を数多く死亡させたなどとして多くのBC級戦犯が起訴されました。
巣鴨プリズンで処刑されたのはごく一部で、日本の国外で開かれた裁判も含めると、戦犯約5700人が起訴され、無期・有期刑判決を受けたのは3000人以上にもなり、984人が死刑判決を受けました。
巣鴨プリズンには別の顔もありました。
収容者たちで勉強会を開いて社会や経済の仕組みを学んだり、週刊で「すがも新聞」を発行したりしていたそうです。
新聞の内容には「A級戦犯について触れたり、連合軍の占領政策の批判をしたりしない」といった制約があったものの、収容者たちで編集し、英語への翻訳も行われていました。
1952年にサンフランシスコ講和条約が発効されると、巣鴨プリズンの運営は日本に移管されます。名称も「巣鴨刑務所」へと変更されました。
そして、1958年、最後の戦犯が釈放されたことで、巣鴨刑務所は閉鎖され、東京拘置所となりました。
巣鴨プリズンに収容されていた人の中には、サリドマイド薬害訴訟にかかわった故・飯田進さんなど、後に反戦や平和、福祉活動に尽力する人もいました。
池袋にあるのに「巣鴨プリズン」と呼ばれるのはなぜなのでしょうか。
豊島区によると、現在「東池袋」と呼ばれている場所の一部は1960年代の区画整理によってできたもので、かつては「西巣鴨」と呼ばれていたそうです。
その後、1971年に東京拘置所の建物は解体され、1978年には跡地にサンシャインシティが開業しました。中心となるサンシャイン60ビルは、完成当時アジアで最も高いビルでした。
再開発で街の様子は大きく変わり、土地に残された戦争の記憶も徐々に薄れていきました。
今では東池袋中央公園の石碑が、この場所がなんであったかを語る数少ない物証となっています。
公園を管理する豊島区によると、今でも時々たばこや飲み物などが石碑に供えられていることがあるそうです。
石碑の裏側の文言は、こう結ばれています。
「戦争による悲劇を再び繰り返さないため、この地を前述の遺跡とし、この碑を建立する」
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