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子連れの聖地「こどもの国」に並ぶ鉄扉…「ここは〝弾薬庫〟だった」
子どもたちの遊び場として、横浜市に「こどもの国」が作られてから、今年で59年になります。多くの親子連れでにぎわうこの場所が、かつて旧日本軍の弾薬庫だったことを知っていますか? この土地がこどもの国として生まれ変わる際、戦争にまつわる、ある物語がレリーフに残されました。(朝日新聞デジタル企画報道部・武田啓亮)
横浜市から東京都町田市にかけてまたがるこどもの国は、1965年に開園しました。
約100ヘクタールの広大な土地の中に遊具やプール、ポニーとふれあえる牧場や野外炊事場などを備えた、親子連れに人気のお出かけスポットとなっています。校外学習などで訪れる学校も多いようです。
取材に訪れた8月上旬、横浜市の最高気温は34度近く。暑さのせいか、園内で遊ぶ子どもたちの姿はやや少ない印象を受けました。
それでも、プールや水遊び場の近くでは、にぎやかなこどもたちの声が聞こえてきます。
そんな場所から少し坂道を登ると、丘のように盛り上がった地形の側面に、四角いねずみ色の鉄の扉が並んでいるのが目に入ります。どの扉も閉ざされ、扉の中に一般の来園者が入ることはできません。
木製の階段で丘の斜面を登ると、木々の中に柱のように見える2.5メートルほどのコンクリート製の柱のようなものがありました。
実はこの場所は、戦時中には日本陸軍の弾薬庫として使われていたのです。鉄の扉は弾薬庫内に通じる横穴で、柱のようなものは換気塔でした。
ここでは弾薬も製造されており、10代の学生も動員されていました。
彼らの中には、弾薬の運搬中の事故による犠牲者も出ています。
園内には「平和を祈る」と記された小さな石碑も残っています。
戦後は米軍に接収され、引き続き朝鮮戦争時代に弾薬庫として利用されます。
1961年に米国から返還され、その跡地がこどもの国として生まれ変わりました。
返還に際して、ある逸話が残されています。
こどもの国が作られる際、厚生省(当時)の中央児童厚生施設特別委員会の委員長、故・久留島秀三郎氏が米国側との返還交渉にあたりました。
当初、返還に難色を示していた米国側でしたが、久留島氏が米軍の司令官に直談判してから2週間後、一転して返還に応じたのです。
実は、久留島氏はボーイスカウト日本連盟の理事長という顔もあり、会談した米軍の司令官もボーイスカウト出身だったことから話が盛り上がったそう。
「返還の是非は再度検討する」と返還に前向きな反応を引き出すことができたのだそうです。
会談が終わった後、ふたりは互いに人さし指、中指、薬指の3本を立てて敬礼する「三指の礼」と呼ばれるボーイスカウト式の敬礼をして別れたと言われています。
それにしても、交渉相手がボーイスカウト出身だというだけでここまで判断が翻ったのは、少し不思議に思えます。
実は、日米両国とボーイスカウトの関係には、もう一つエピソードがあります。
こどもの国の弾薬庫跡に、その内容を記したレリーフ「無名戦士の記念碑」と銅像が残されています。
倒れた米兵と、それを見つめる日本兵が互いに「三指の礼」をする姿が描かれて、レリーフの由来を示した銅板にはこんな内容が書かれています。
ボーイスカウト日本連盟によると、この話は戦後、米兵とその父親から、アメリカのボーイスカウト連盟へと伝わり、現地の新聞などでも取り上げられて大きな反響を呼んだそうです。
しかし、連盟の担当者によると、日米のふたりの兵士の名前は分からないそうです。
「米兵は自分の名前を明かさなかったようです。日本兵の方も身元は分からず、その後の戦闘で戦死してしまったのではないかと考えられています」
この「無名戦士の記念碑」は、このエピソードを後世に残そうと、こどもの国開園の翌年の1966年にボーイスカウト関係者らの寄付金で作られたものでした。
連盟の担当者によると、こどもの国返還の経緯と合わせて、この一連のエピソードは「ボーイスカウト関係者の間では有名な話」だそうです。
「ボーイスカウトで教わる価値観の一つに『国際愛と人道主義』があります。国同士が争う戦争の愚かさと、敵味方を超えた個人の友情の尊さを子どもたちに伝えるために、今でも大切に語り継がれています」
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