人生100年時代ともいわれる今。人生の大半を占める「老い」の期間と、どう向き合ったらいいのでしょうか。仏教では「生老病死」は人間の営みで、あらがえないものと捉えるそうですが、僧侶は「それに向き合う前の、漠然としたイメージが怖いのではありませんか?」と問いかけます。僧侶や医師たちが「生老病死」をテーマに語り合いました。
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ヤンデル先生(病理医):お寺も「場」を開いて、みんなが集まってくるコミュニティーが大事というお話が出てきました。
新型コロナウイルスの関連で、よくテレビで拝見していた尾身茂先生の著書、最後の方に「やっぱりコミュニティー作った方がいいよね」って話が出てくるんですよ。
公衆衛生・感染症・疫学とかやってらっしゃる方も、何かそういう集まりを作った方がいいんじゃないかって話がぱっと出てくるの。西先生は「暮らしの保健室」の活動で、「社会的処方」をしているじゃないですか。
西智弘先生(緩和ケア医):医学業界も、「最新の治療はこれ」「これが最新の研究だ」と、さも市民の人たちに「僕たちが教えてあげるよ」という感じになっているんですが、「僕らが権力を持っていて、市民の人たちにそれを上から押しつけるような感じ」に捉えられていると思っています。
コロナ禍で「行動制限しましょう」「感染がこれだけ危険です」と医者が言えば言うほど、民意を反映せずに、上から押さえつけるような感じになってしまう。
だから僕は、そこにコミュニティの力を取り戻していく必要があるんじゃないのかなと想像しているんです。
ただ、仏教の流れとしてはどうなのか、昇洋さんに聞いてみたいです。
僕は必ず初診の時、患者さんに信仰している宗教があるかどうかを聞きます。
するとほとんどの人が「とんでもない、宗教なんてありません」ってちょっといやがるように言うんですよ。
でも僕は、精神的なよりどころが、日本人の心の中にもあると思うんですよね。
それでも「お坊さんにお話を聞いてみよう」とはなかなかならない。大事なことだし、いろいろな人間の悩みも、すでに経典の中に書いてあるのに。
現代において「また仏教の世界に戻りましょう」「経典を読みましょう」というのは自然な流れではないと思うんですが、どうなんでしょうか?
生老病死との向き合い方を考えたトークセッション。左から、編集者・たらればさん、僧侶・吉村昇洋さん、病理医・ヤンデル先生、緩和ケア医・西智弘先生、MCの浅生鴨さん 出典: 水野梓撮影
吉村昇洋さん(僧侶):仏法の伝え方について、ここ20年ぐらいですかね、「語る仏教」から、「聴く仏教」へっていうような動きがあったんです。
それまでは法話を中心に、もう一方的に伝えるっていうやり方をしていたんですよね。
それが、あるとき、カウンセリング技術がガーッと上がってきて、お坊さんの中でもそういったことを学んでくる人たちがちょっとずつ出てきて、「やっぱりお坊さんもちゃんと聞かなきゃだめだ」となったんですね。
おそらくバブル崩壊後ぐらいだと思いますが、そんな流れの中で、「ちゃんと話を聞けるお坊さんを作っていこう」と、各宗派で若手のお坊さんに対してレクチャーがありました。
「聴く」ことが、そのコミュニティーの基本になっているんですよね。
結局、どこに惹かれて集まるかというと、それは仏教の教え自体ではなくて、「あのお坊さんに会いにいきたい」「あそこに来る誰々さんに会いたい」みたいなかたちがやっぱり多いんです。
だから法を語ったからといって、そこに集まるわけでもないのが現実で、結局は人間力だったりするんです。
もちろんその教えの力というのも、ちゃんと勉強すればあるんですよ。でもその魅力だけではない部分がやっぱりあるわけですよ。
浅生鴨さん(MC):まさに「傾聴」といわれるものですね。人はやっぱり聞いてもらいたい存在なんですかね。
西先生: コミュニティを作るっていうのは、最初に「コミュニティを作る」があるんじゃなくて、ケアの力を利用して「聴く」から入っていった方がいいんでしょうね。
「この人は、自分の暮らしている地域で、自分の話を聞いてくれる存在なんだ、自分の苦しみに付き合ってくれる存在なんだ」と思うと、入ってきてくれる。それが結果的にコミュニティになるっていう。
順番が逆だったのかもしれないですね。
コミュニティを作っていくんじゃなくて、ケアを進めていくとコミュニティになっていくという流れですね。
ヤンデル先生:昇洋さんはいま「臨床心理士」をされていますよね。でも宗教者が患者の話を聴く「臨床宗教師」という役割も広がってきています。
臨床宗教師と臨床心理士で違いはありますか? そこを臨床心理士が代替できる可能性はあるんでしょうか。
昇洋さん:西先生のご専門のターミナルケアでは、大きな枠として「スピリチュアルケア」がありますよね。そこに僧侶やチャプレン(病院牧師)といった宗教者が入る余地ってたしかにあると思います。
ただ私が通った大学では、「別にこれは宗教者じゃなくても臨床心理士でできるよね」とあっさり言われてしまいました(笑)。
その方へのケアをしていって、隙間を最大限埋めていって。でも「やっぱり手が届かない部分」ってあると思うんですよね。
そうなったときに、宗教者が入ればすごくいいとは思います。たとえば私が臨床心理士として入ったとしても「宗教者・臨床心理士のどちらの立場でやるのか?」と思うんですが。
私の場合、「僧侶・仏教というOSをのせた上に、臨床心理士・臨床心理学というアプリケーションを使っている自覚」があるんです。
僧侶・吉村昇洋さん、ヤンデル先生(右) 出典: 水野梓撮影
昇洋さん:だからうまくバランスをとりながらケアしていくかたちをとっていきますね。ただ、これは私の在り方であって、他の人たちとは違う部分もあると思うんです。
それはもう、その個人個人がどのように関わっていくのかってことだと思います。
たとえば同じアプローチをしても、同じ結果が出るかというと、患者さんによって個人差や人格の差も出てきますので、同じような結果にはならないですからね。
ヤンデル先生:お話を聞いていて、医学とかエビデンスってOSでもアプリでもなくて、そこに内蔵されてるデータそのものなんですよね。
医者は「エビデンスを使って」ってよく言うんですけど、OS不在のまま使うと変なことになるんだなって、なんとなく思いました。
鴨さん(MC):どうしても僕たちは僧侶と話すとき、生老病死の「死」について聞きがちです。人生において「死」って実は最後のワンポイントで、大半は「病」「老」の方が多いんじゃないか。
たらればさん(編集者):昔は、「病」とか「老い」とかの付き合い方、そのカウンセリングの部分をお坊さんが担っていたんですよね。
お坊さんは何でもやっていて、学者でもあり、医療者でもあり、薬剤師でもあって、法要などを担うエンターテイナーでもあった。
そういえば清少納言が「坊主はイケメンに限る」って書いてたなあと(笑)。話を聞く側の姿勢として「聴く準備」って、そういうことなんだろうなと思いますね。
鴨さん(MC):かつてのお坊さんはアイドルなんですかね。「うちに法話に来てください」って呼んできてもらうような。
平均寿命が80を越えてきた時代。でも生物的にはやっぱり20代半ばぐらいでピークじゃないですか。ということは、80年の人生の大半は「老」なんですよね。
たられば:老か病。
鴨さん(MC):昔は50で亡くなっていたから半々ぐらいだったのが、今や30年「老」が続いてる状態。僕たちのモノの考え方とか、それこそOSが古いんじゃないかなと。
人生のほとんどは「老」であるというところから、ものを考え直した方がいいのかな?という気がしましたね。
鴨さん(MC):「老」って、宗教と仏教的にはどう捉えるんですか。
昇洋さん:
もうそれは抗えないもの、「四苦」ですよね。「生老病死」は「苦、つまり自分の思い通りにならないものである」ということが前提です。
だから、「老」に抗うとか、「病」に抗うっていうのを否定しています。医療と向き合っているお医者さん方に失礼になってしまうんですけど。
ただ、ある程度、「もうこれは受け入れないといけない」という段階ってあるんですよね。
だから「病」や「老い」「死」への否認は、あまり意味がないよねっていうのが仏教の捉え方ですね。
そして「四苦」を見ないようにするのではなくて、真正面からじっくり見ていきましょうというのが教えです。
だいたい私たちって、ちゃんと見る前が怖いんですよね。「病」や「老」「死」にちゃんと向き合う前の、「なんとなくのイメージ」が怖いんです。
それを見つめていくと、「漠然とした不安」だったものが、「じゃあこう受け止めれば何とかなる部分があるかもしれない」と解決策が見えてくることもあります。
鴨さん(MC):「分からない」と怖いんですね。
昇洋さん:そうですね。「分かることから逃げない」というのが大事になってきます。老いも人間の営みとして当たり前のことですので、それを受け止める。
作家の赤瀬川原平が提唱した「老人力」も、物忘れといったマイナスな点をポジティブにとらえています。「忘れられる力を手に入れた」と考えていくと、余計なことを考えなくてすむ部分があります。
現実問題としては、必要なことも忘れてしまうわけなので、フォローできるような社会の仕組みや人間関係が必要になってくるとは思いますが、個人でどうにかできる部分としては、捉え方を変えていくだけで、少し楽になってくる部分があると思います。
西先生:僕、毎朝しゃべっているネットラジオを始めたきっかけが、自分の中で老いを感じ始めたことなんです。
若いときと感性が違ってきて、瑞々しくなくなってきて、だいぶ乾いてきて。精神的・肉体的な「老い」「衰え」「喪失」を見つけたときに、それを「老いてしまった」と悲しむんじゃなくて、「お、見つけた、しゃべろう」ってモチベーションに変えてるんですよ。そうするとちょっと気持ちが楽になります。
「老い」を言葉にすることが、自分なりの「老い」の見つめ方です。もちろん「じゃあどうするか」という答えが見つかるわけじゃないんですが。
でも次は、「その状態でどれだけのパフォーマンスを出せるか」ってことを考えなきゃいけない。一段階進めているんですよね。
こういうことを40代ぐらいから徐々にやっていくといいのかなって思います。
歳をとってから老人をテーマに本を出す人がたくさんいますけど、本当は中年ぐらいで出してほしいなと思うんですよ(笑)。
ヤンデル先生:
OSをアップデートして、新しいアプリを入れるみたいな感じで、「このタイミングで少し考え方をシフトしよう」「ラジオをやってみよう」と切り替えたんですね。
鴨さん(MC):「今この瞬間の自分を丁寧に見る」っていうことが大事なんだろうな。
今自分は何を感じて、ここがこんな風になっているとか、どこが痛いとか、丁寧に自分の中を見るっていう。そういう作業が「知る」っていうことの「一歩」なのかなと思う。
昇洋さんがなさってる、認知行動療法のマインドフルネスでもひとつのやり方としてありますよね。
昇洋さん:マインドフルネス自体が「禅」からきています。
座して瞑想するやり方は、まさに今この瞬間をしっかりと見つめていくことです。これは禅宗に限らず、全部の仏教の中で大事にされるものなんですね。
「今この瞬間」は現実しかなく、私たちは過去にも未来にも触れられないんです。でもどうしても、過去や未来にとらわれすぎてしまいます。
現実をしっかりと見つめていきましょう、というのは仏法の基本ですね。
初期仏教の八つの修行「八正道(涅槃に至るための実践徳目)」も、その一番最初に「正見」、正しく見るっていうのがあります。一番最初のものが、最も重要なんですね。
いかに今この瞬間の「正しく見る」が意識できるか、ということが大事になってくるんです。
鴨さん(MC):猫を飼っていますが、まさに猫は過去も未来のことも考えないし、今この瞬間の反応で生きていますね。
猫のように、今この瞬間のことだけを考えて生きていれば、何も気にしない生き方ができるんだろうなっていうのは、常日頃思ってるんですよ。でもやっぱり人間なので、どうしても住宅ローンとかいろいろ先のことを考えてしまうわけですよね(笑)
「今この瞬間だけを感じて生きる」。たらればさん、どうですか。
たられば:酔っ払って、もう一杯飲んだら楽しいけど、次の日の朝からの会議がつらいなって思う……この瞬間を楽しむにはもう一杯を選ぶけど……。
あれ、ダメ人間みたいな話になってしまったな。もうちょっと高尚な話がしたかったな(笑)
昇洋さん:たとえば、コロナ禍で「医療者の情報は信じられない」という現状がありますよね。その背景には、個々人の抱える漠然とした不安があるんですよね。
普段からお医者さんのことを信頼していないか、というとそんなことはない。病気になったら病院へいくし、薬をもらうし、ということをやっていても、コロナに関しては、変な反応が起きてしまう。
しかし、自分の抱える本当の不安には目が向いていないんですよね。そこをちゃんと自分で見つめられていないから、その不安を解消してくれるような情報に当たっていって、おかしな情報へたどりついてしまっているような気がします。
自分の不安とは一体なんなのか?ということを、本来は自分自身で見つけていかないといけない。しかしおそらく、それを支えていくコミュニティーが、その人たちには不足しているんだと思いますね。
「医療の正しさ」というのは、本来は「積み重ねの正しさ」です。最初は間違ってたかもしれないけれども、トライアンドエラーを重ねながら、最終的に「標準治療(科学的根拠に基づいた現在の最良の治療)」という形にたどり着いていきます。
不安な人たちのなかには、最初のトライアンドエラーの情報を拾ってきて、「やっぱり医療は正しくない」と評価して自分の溜飲を下げることがあります。
「そう思いたい」という自分の心は、不安とは一体何なのかを、見つけていかないといけないんですよね。
鴨さん(MC):不安の原因は外にあるのではなく、自分の中にあるってことですよね。
昇洋さん:そうですね。そこを勘違いして、外に不安の要素を探してしまうから、おかしなことになってしまうと感じます。
ヤンデル先生:今回お話を聞いて、「浄土」や「極楽」にもさまざまな立場があると分かりました。
曹洞宗では〝あの世〟を「△だ」と表現していた昇洋さんなのに、「異世界転生もの」の漫画を好んでご覧になっているというポッドキャストを聞いて、僕は爆笑したんですが。
そのなかで、息子を交通事故で亡くしたお母さんが「息子は異世界に転生した。私も転生したい。どうやったらできる?」と昔の同級生のオタクに尋ねにくる、っていうマンガが紹介されていました。もう度肝を抜かれたんです。
▼朝日新聞ポッドキャスト
異世界転生という「喪失の物語」 語る仏教から寄り添う仏教へ #694(https://omny.fm/shows/asahi/694)
ヤンデル先生:そういう解釈をしようとしているお母さんに対して、オタクがかつてのお坊さんのような立ち位置を取っているのか、取っていないのかというお話で、すごく面白くて。僕は息子にマンガを勧めましたね。
昇洋さん:マンガ『私の息子が異世界転生したっぽい』(シバタヒカリ作)ですね。
このマンガは、息子を亡くして、しんどい状態の時に、頼る相手がオタクだっていうのが絶妙なんです。
ステレオタイプではありますが、オタクはコミュニケーションが苦手なんですよね。だからこのお母さんにズケズケいかないんですよ。とりあえずあたふたするしかない。
でもこの「あたふたするしかない」っていうあり方が、実は相手の話を「聴く」っていうことにつながってるんですよね。
これはマンガ「タコピーの原罪」(タイザン5作)と構造が同じです。あれもタコピーがとにかくあたふたするんですよ。
自分の中でうまく処理できなくて、あたふたするんですけど、それをやっていること自体が「寄り添っていく」ことになるんです。
そう考えると、いかに相手を否定せずに寄り添えるか、そこがやっぱり大事になってくると思うんですね。
ヤンデル先生:いま「ケア」や「寄り添う」といった社会的に流行している言葉がありますよね。
普段は「ちょっと使われ方が軽いな」って感じることもあるんですけど、僕、きょうの「ケア」とか「寄り添う」といった言葉は、聞けましたね。
しっかり考えた末に出て来ているからですかね。すごく面白かったです。
鴨さん(MC):みなさん、モヤモヤは少しは晴れましたでしょうか。
とはいえ、生老病死について、モヤモヤし続けても全然構わないんですよね。
「自分がモヤモヤしていることをちゃんと見る」ということが大事なのかな、という気がしました。みなさん、ありがとうございました。
SNS医療のカタチとは:
「医者の一言に傷ついた」「インターネットをみても何が本当かわからない」など、医療とインターネットの普及で生まれた、知識や心のギャップを解消しようと集まった有志の医師たちによる取り組み。皮膚科医・大塚篤司/小児科医・堀向健太/病理医・市原真/外科医・山本健人が中心となり、オンラインイベントや、YouTube配信、サイト(
https://snsiryou.com/)などで情報を発信し、交流を試みています