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小林賢太郎、テレビスターへの道絶った世界観 DVD時代のカリスマ性
〝ポストナインティナイン〟の座を辞退、〝引退〟決めたコント師の足跡
お笑いコンビ・ラーメンズの一人で、演出家、劇作家としても知られる小林賢太郎が芸能活動から引退すると発表した。若手時代、小林はテレビスターへの道を自ら絶ち、舞台を中心に活動してきた。また、2010年からはコンビの活動さえ休止し、ソロ公演やプロデュース公演に注力した。なぜほとんどメディアに露出しない小林が明確に引退宣言をしたのか。改めて彼の足跡を振り返る。(ライター・鈴木旭)
『ラーメンズつくるひとデコ』(太田出版)を読むと、コント師・小林賢太郎の特殊さが垣間見える。
「学校で絵が一番うまいやつ」。これが高校時代の小林賢太郎のポジションだった。手先が器用で、デパートのおもちゃ売り場に通い詰めてマジックをひたすら練習。多摩美術大学に進学後、実際にそのおもちゃ売り場で手品グッズの実演販売のアルバイトを始めた。このスキルは、後に彼の欠かせない一芸となっていく。
お笑い好きだが、いわゆるクラスの人気者タイプではなかった小林。そこで、同級生の人気者だった片桐仁を誘って1996年にラーメンズを結成。多摩美の学園祭だけでなく、大手事務所の主催ライブ、他大学のライブにも積極的に参加して経験を積んでいった。
当時、別の大学で活動していたエレキコミック・やついいちろうは、著書『それこそ青春というやつなのだろうな』(PARCO出版)の中で「(あるライブの前に)みんな普通の格好で集まったのだが、遅れてやってきたラーメンズだけは違っていた。2人ともバスローブを着てワイングラスを持ち、サングラスをして登場したのだ」と、その奇行ぶりを明かしている。
コンビでカラーコーンを被って演じるなど、ネタの見せ方も奇抜だった。その背景には、1990年代にカリスマ的な存在となっていたダウンタウン・松本人志の影響があったようだ。
そもそも小林は、デザイナーやイラストレーターといった美術関係の仕事に就こうと考えていた。しかし、美大に入ると、周りは絵がうまい学生たちばかり。「僕は絵を描く技術者でしかなくて、表現者じゃなかったんだ」とショックを受け、活動の軸をお笑いへとシフトした。
『ラーメンズつくるひとデコ』には当時の心境がつづられている。
バラエティー番組、お笑い関連のビデオを見続け、とにかく小林はお笑いを「研究」した。「“松っちゃん(松本人志)”みたいになりたい」という思いからだった。ネタを書いてはライブで披露し、試行錯誤しながら自分なりの形を模索していく。その中でつかんだのが、独自のコントスタイルだった。
90年代当時は、「男を笑わせたら本物だ」という言葉が飛び交っていた。しかし、小林はそこを「ボーダーレスにしたかった」と書いている。現在、ジェンダーレスは一般に浸透してきているが、小林は20年以上前にこれを意識していた。この感覚こそがラーメンズのコントの核となったように思う。
1998年6月に行われた単独ライブ「箱式」では、小林が架空の大学教授を演じる「現代片桐概論」、片桐が架空の父親を演じる「タカシと父さん」のように、コンビのどちらかが一言も発しないコントが見られる。これは、従来のコントに対する挑戦でもあった。
2001年10月に放送された『トップランナー』(NHK総合/教育・1997年4月~2011年3月終了)にラーメンズがゲスト出演した際、小林はこんなことを語っている。
「誰もやっちゃいけないとは言ってないのに、『どうして誰もやってないんだろう? この形は』っていうのがたくさんあるんですよ。たとえば1人はしゃべって動くけど、1人は動かないししゃべらない。別にいいんですよ、やっても」
すでにあるボケ、ツッコミのシステムを一旦なくし、面白い状況を見せるための形を後から構築する。単独ライブでは決まってシンプルなモノトーンの衣装を着ていたが、これも見る者に想像の余地を残すための演出だった。それまでに、こんな方法論でコントをつくる芸人などいなかったはずだ。
ラーメンズは、ライブを重ねるごとにカリスマ的な人気を獲得していく。深夜番組や『爆笑オンエアバトル』(NHK総合)といったネタ番組にも出演し、次世代のスターという兆しも見せていた。しかし、それは周囲が描いた青写真にすぎなかった。
「テレビって苦手なんですよ。自分がテレビ画面に映ってるのを見るのがものすごく怖いんですよ。恥ずかしいんですね」「司会業ですとか、パネラーみたいな今ここにいる仕事もそうですけど、ここで笑いをつくれるかって言ったら、僕はもう無理なんですよ。で、まぁつくれたとしても僕が無理してたりだとか、あとそれをやるんだったらもっとほかにも上手な人がいるであったりとか……。ということなので、僕個人の考えとしては舞台でやっていきたいっていうふうに思います」
これは、深夜番組『完売劇場』(テレビ朝日系・2000年4月~2009年3月終了)のお笑い討論企画「朝まで生テレビ!?」で小林が発した言葉だ。業界内では“ポストナインティナイン”といった期待の声も上がる中で、小林は自らテレビスターの道を絶ったのだ。
しかし、この選択を時代が後押しした。映像ソフトはVHSからDVDへと移行し、CDのセールスが減少するのと反比例するように需要が高まった。例に漏れず、単独ライブの模様を収録したラーメンズのDVDも好調な売れ行きを見せた。また、ネットが普及したことで「テレビに露出しない=売れていない芸人」とは一概に言えない風潮が表れた。ラーメンズの場合も、このことでカリスマ性が高まったと言える。
高橋幸宏やKREVA、椎名林檎ら著名ミュージシャンも、早くからラーメンズを支持した。単独ライブは毎回即完売。お笑い芸人とは思えない集客力を見せた。私も2003年~2004年の「STUDY」、2005年の「ALICE」を観ているが、指定席のチケットは手に入らず、いずれも座布団席だった。“良質なショートショート”を思わせる彼らのコントは、生で観るからこその価値があった。
小林は2002年から「小林賢太郎プロデュース公演(KKP)」、2004年からバカリズムとの大喜利ユニット「大喜利猿」、2005年からソロ公演「POTSUNEN」がスタートするなど、精力的な活動を展開した。その中、ラーメンズは2009年の単独ライブ「TOWER」をもって活動を休止してしまう。
その理由は定かではない。ただ、劇団「ナイロン100℃」を主宰するケラリーノ・サンドロヴィッチ(以下、ケラ)が自身のブログで厳しい指摘をした後だったのはたしかだ。舞台における演者と観客との関係性について、ケラはこんなことを書いていた。
「『他者』がいない客席は駄目だ。『他者不在』の状態は、他者(例えば俺)が観た時、大きな違和感を感じる。マギーには悪いが、後期のジョビジョバはそれが嫌で観に行く気になれなかった。ラーメンズもそう。ナイロンにもその気配がないワケではないが、まだ大丈夫だと思えるのは、ごくたまにキャラクターグッズ的なモノを物販した時に、さして売れ行きが良くないからだ。これは俺の偏見か?」(2008年04月01日に投稿されたケラリーノ・サンドロヴィッチblog 「日々是嫌日」より)
つまり、ファンだけがライブを観にくる状態は健全ではないという指摘だ。とはいえ、ケラは後日ブログを更新し、「俺ラーメンズもラーメンも好きだし、あの小林くんのストイックな姿勢はほんの少し尊敬してるといっても過言ではない。だからこそ余計勿体ないと思った」と補足している。このことからも、小林またはラーメンズに対する愛ある言葉であったことは間違いない。
いずれにしろラーメンズは活動を休止し、小林はソロ公演やプロデュース公演に注力するようになった。
とくにソロ公演では、トランプを使用した「アナグラムの穴」、壁に貼られた四角形や三角形のパネルを組み合わせながらストーリーを展開する「タングラムの壁」など、マジックショーを思わせる演出とパフォーマンスが光った。学生時代に熱中したマジックのスキルがここに生きている。
2016年からは小林が作・演出を手掛けるコント公演「カジャラ」もスタート。まるでラーメンズという完成された存在から距離を置き、新たな余白の可能性に挑戦し続けているように見えた。
小林のストイックさは、2009年から始まった『小林賢太郎テレビ』(NHK BSプレミアム)を見るとよくわかる。
恒例の企画「お題コント」では、制作期間3日、カメラ一台、編集・合成なし、セット・小道具は自作という限られた制約の中で、小林が番組から渡されるお題に応じたコントを創作。実験室のようなアトリエにこもり、ふと沸いたアイデアをひたすら試していく。
ギリギリまで台本に起こさず、絵を描いたり小道具でイメージを固めたりしながら最善の策を模索。放送回によっては、寝る時間を割いてまで1本のコントに集中していた。こうして完成する短いコント映像は、どれもクオリティーの高いものばかりだった。仕事の大小を問わず、求められたものに最大限のパフォーマンスを発揮しようとする小林の性格がうかがえる。
その真っすぐな姿勢によるものだろう。小林は今年2020年11月16日をもって“芸能活動から引退”すると発表した。足を悪くしたことも理由の一つに挙げているが、小林の中で「パフォーマー」という肩書きを外すに至った“別の何か”があったのだと想像される。
もちろん演者として見られないのは残念だが、まだまだ創作意欲は消えていないはずだ。今後も裏方としての活動は継続するとしているため、ぜひ劇作家や演出家として見る者を楽しませてほしい。小林はコントの可能性を広げたアーティストだ。そんな彼の新たな作品を心待ちにしている。
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