連載
土産店員のジェンキンスさんに会いたくて 横たわる「長すぎる時間」
ジェンキンスさんに会いにいった山下さんが見つけた、「ファンシー絵みやげ」との意外なつながりとは。
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ジェンキンスさんに会いにいった山下さんが見つけた、「ファンシー絵みやげ」との意外なつながりとは。
80~90年代に日本中の観光地で売られていた雑貨みやげ「ファンシー絵みやげ」を集める山下メロさん。時代の流れとともに消えていった「文化遺産」を、保護するために全国を飛び回っています。2015年には、新潟県の佐渡島を訪れていました。そこで出会ったのは、北朝鮮から来日し佐渡で暮らしていた故・チャールズ・ジェンキンスさん。佐渡では観光施設の売店で働いていたことはご存じでしょうか? お土産を研究する者として会いに行った山下さんは、「ファンシー絵みやげ」との意外なつながりを見つけ、時代の流れに思いを馳せました。
私は、日本中を旅しています。自分さがしではありません。「ファンシー絵みやげ」さがしです。
「ファンシー絵みやげ」とは、1980年代から1990年代かけて日本中の観光地で売られていた子ども向け雑貨みやげの総称で、ローマ字日本語、二頭身デフォルメのイラストが特徴です。写真を見れば、実家や親戚の家にあったこのお土産にピンと来る人も多いのではないでしょうか。
バブル時代をピークに、バブル崩壊とともに段々と姿を消し、今では探してもなかなか見つからない絶滅危惧種となっています。
私は、その生存個体を保護するための「保護活動」を全国で行っているのです。
今回の目的地は新潟県の佐渡島、2015年のことです。島といっても、日本では沖縄県本島の次に次いで大きな島いサイズ。で、東京都23区の1.45倍ほどの大きさがあります。佐渡をローマ字表記した「SADO」のイニシャルである「S」と同じような形をしているのが特徴です。
私が個人的に「日本一有名な土産店店員」であると思っている方が佐渡にいました。それは、2017年12月に亡くなられたチャールズ・ジェンキンスさんです。
ジェンキンスさんは2004年に北朝鮮から来日。佐渡で暮らし始めてからは、観光施設「佐渡歴史伝説館」の職員として売店で働いていたのです。あまり土産店の店員さんにスポットが当たることはないので、まさに日本一有名な店員さんでしょう。実際、ジェンキンスさん目当てに足を運ぶ人も多かったようです。
観光地みやげを研究する私としましても、佐渡の土を踏んだ以上、日本一有名な土産店店員であるジェンキンスさんに会いたいという思いを抱いていました。しかも、ジェンキンスさんの職場にも当然ファンシー絵みやげが売られている可能性がありますので、調査もしなくてはなりません。
佐渡歴史伝説館は、佐渡島の南側「小佐渡エリア」にあり、800年前の佐渡を体験する施設です。流刑の歴史を等身大の人型ロボットが再現し、そして説明してくれます。その日は、近くにある佐渡西三川ゴールドパークの売店や、土産店ではないのですが日本人料理人の松久信幸さんのレストラン「NOBU」に日本酒を独占納入している北雪酒造を調査しており、ちょうど流れで佐渡歴史伝説館に立ち寄りました。
すでに最終受付の17時を過ぎたところで展示は見られない状況でしたが、「17時ギリギリで入館したお客様が展示を見た帰りに買い物をするので、まだまだ売店は営業しているはず」と予測して来てみたのです。すぐに売店へ行ってみると、読み通り営業していました。入店すると、いきなりジェンキンスさんが早速のお出迎えです。
やっと会えたジェンキンスさん。
しかし、何かおかしい。
近づいても顔色一つ変えないジェンキンスさん。
そうです、これは等身大パネルだったのです。よく見ると首に「充電中」という札がかけられています。
山下メロ
お店の方
山下メロ
お店の方
最終受付時間の1時間も前に帰られてしまうという衝撃の事実が判明しました。時間が読めない個人商店を優先し、営業時間がハッキリしている施設を後回しにしたことですれ違ってしまったのです。先にここに来ていれば……と悔やんでも悔やみきれません。あと数日の佐渡島滞在中になんとか再チャレンジできないものか……と考えていると、さらに驚きの事実が判明しました。
お店の方
なんと、出勤曜日が決まっていたのです。しかも週に数回だけの出勤。あとわずかの滞在期間、その曜日は1日しかありません。
そして、すでにこの施設の周辺は本日調査を終えてしまっているため、このエリアに来る理由がありません。その日に広い佐渡島を大移動して、ジェンキンスさんに会いに来る以外の手段がないのです。調査するべき箇所はたくさん残っていますので、その日に佐渡歴史伝説館まで来られる可能性はほぼゼロでした。
なので、せめてパネルと記念写真を撮っておこうと、ツーショット写真を撮影しました。
しかし写真を撮りたいわけではなく、実際に会いたいのです。
今回の保護活動は観光スポットの土産店がメインで、施設の売店で会えるジェンキンスさんは、「行けたらいいや」という程度の認識でした。なので、優先して行くことはなく、たまたま近くを通った時に立ち寄ったのです。しかし、出勤曜日が決まっていて、遅い時間にはいないということが分かっていれば最優先で計画を立てて行くべきでした。
知らなかったとこととはいえ大変ショックで、その後もずっとモヤモヤしていました。「会えたらいいや」くらいに思っていたのが、「会えなかったこと」により「どうしても会いたい」に変わっていったのです。
お土産を研究する者として会っておくべき人と、あと少しのところで会えなかった。次に佐渡に来られるのはいつになるか分からない。しかもその相手はご高齢。いつまで元気に出勤され、店頭で気軽に会えるかは分かりません。そう考え始めると止まらなくなり、私はとにかくすべての予定を調整し、調査も前倒しで進めてなんとかその1日をジェンキンスさんに使えるよう動いたのです。そしてその日はやってきました。
そして、会えました。
山下メロ
ジェンキンスさん
山下メロ
ジェンキンスさん
山下メロ
ジェンキンスさん
お店の方
佐渡に移住されて10年以上経過していて、ずっと土産店の店頭に立っていらっしゃったのでてっきり日本語が喋れるのかと思っていましたが、リスニングも難しいそうです。私が勝手に勘違いしてしまっていました。しかし私は英語が得意なわけでもありません。
山下メロ
観光客と一緒に写真を撮るサービスはかなりやられているようでしたので、すぐに伝わり、記念写真が撮れました。私は佐渡島で保護したファンシー絵みやげのれんを一緒に持ちましょうと端っこを渡そうとしましたが、ジェンキンスさんは受け取らずに、自身が販売する煎餅「太鼓番」を手に取り、アピールするように掲げました。さすが施設の職員です。
ジェンキンスさんからSNSやネット、出版などに使ってもいいかを拙い英語でたずねて、許可をもらいました。そしてジェンキンスさんが掲げたその煎餅のパッケージを見て、さらに驚いたのです。
まず、北朝鮮による日本人拉致被害者救出への意思表示であるブルーリボン運動のシールが貼られています。しかし驚いたのはそこではありません。なんとファンシー絵みやげ風に描かれた、鬼太鼓の衣装を着た少年のイラストが使われているのです。
三頭身へのデフォルメ、ゴマ目などといわれる白目を描かない点の目、紅潮した頬。細かく見ればファンシー絵みやげとは違う部分もありますが、非常に似通った手法で描かれたイラストで、頭にある鬼の面も可愛らしく描かれているのが特徴です。
現代において、ファンシー絵みやげそのものは製造されていなくても、そのイラストがお菓子のパッケージなどに流用され、現在も流通しているというケースがあります。今回もそのひとつなのですが、事情が異なります。
19歳の曽我ひとみさんが佐渡で拉致されたのは1978年です。その翌年1979年ごろ、ファンシー絵みやげは誕生しています。おそらくほどなくして、佐渡島でもファンシー絵みやげは作られ始めたでしょう。曽我ひとみさんのいない時期の佐渡に溢れていたのがファンシー絵みやげなのです。
1980年代~1990年代のファンシー絵みやげイラストと、拉致被害者救出のブルーリボンが同居するパッケージの煎餅。それを2010年代にジェンキンスさんが販売している状況に触れて、私は時の流れというものを感じました。
「お土産界のカリスマ店員に会うぞ!」という気持ちから訪れた佐渡の地で、彼ら彼女らにとって長すぎる時代の変化を目の当たりにすることになりました。あのとき、「どうしても会いたい」と思ったことで、これからも忘れられない思い出になったことは確かです。会いに行ってよかったと、そう思っています。ジェンキンスさん、ありがとうございました。
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山下メロさんが「ファンシー絵みやげ」を保護する旅はまだまだ続きます。withnewsでは原則週1回、山下さんのルポを紹介していきます。
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