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リリーフカー、最初はバイクだった 車種が進化した「意外な理由」
プロ野球の試合で投手交代の際、後を受ける投手が「リリーフカー」に乗って登場する様子を見たことがありませんか? ところが、導入された当初は、「車」ではなく「バイク」だったようです。その移り変わりを調べてみました。(朝日新聞スポーツ部記者・井上翔太)
リリーフカーならぬ「リリーフバイク」は阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)で、1964年から導入されました。
当時の朝日新聞(大阪本社発行)は「今年からプレーの進行を早くするため、投手交代のとき、スクーターを利用することになった」と写真とともに伝えています。
この頃の甲子園には、外野フェンスの手前に「ラッキー・ゾーン」があり、中は、救援投手が準備をするブルペンでした。公道ではないからなのか、写真では2人ともヘルメットを着用していません。
導入の理由について、当時の朝日新聞は、こう伝えます。
「何しろいままでは、投手交代といったら広い球場のスミからマウンドまでノコノコ歩いてきていたため試合は中断され、せっかく盛上がった興味を半減していたが、この新兵器でスピード・アップしたわけ」。さらに「海の向うのアメリカ大リーグでは、早くからこれを採用しているとのこと」(いずれも記事引用)とあります。
1970~80年代に、プロ野球阪神の抑え投手として活躍した山本和行さん(68)は、このバイクに乗ったことがあります。「最初は係員のような人が運転していた。そのうちカートのような車になって、女性が運転するようになった」と振り返ります。
しかし甲子園のリリーフカーは、ラッキー・ゾーンが撤去された91年シーズン限りで、姿を消します。春夏の高校野球期間中に使われるベンチ脇のブルペンを使用するようになったからです。
1999年、一、三塁側アルプス席の真下あたりにある室内練習場をブルペンとして使うようになると、リリーフカーが復活しました。車はダイハツ工業から提供されていましたが、現在はメルセデス・ベンツの「smart fortwo」が使われています。
時代とともに車のグレードが上がった感があるリリーフカー。それは、プロ野球で救援投手が注目されるようになった歴史とも重なります。
山本さんの時代は「投手は全員が先発で、勝ち負けがつくまで投げることが前提」。リリーフも「3イニングが当たり前」でした。「先発した2日後は、救援に回る」ということも普通だったそうです。
抑え投手に「セーブ」が記録されるようになったのが74年。「最優秀中継ぎ投手」のタイトルができたのは96年。中継ぎ投手にも「ホールド」が記録されるようになり、投手は分業制が進みました。
今ではどの球団でも「勝利の方程式」と言われる試合終盤の継投策が、確立されています。
一方で、リリーフカーが見られる球場は少なくなりました。
かつては後楽園球場や広島市民球場などでも使われていましたが、今は甲子園と横浜スタジアム、ZOZOマリンスタジアムの3カ所だけ。ベンチ裏にブルペンを設ける球場が増え、救援投手は自チームのベンチから歩いたり、走ったりして出てきます。
1964年の朝日新聞で「早くからこれを採用している」と紹介された大リーグでも、使う球場は見られません。投手は外野奥にあるブルペンから、走ってマウンドに向かいます。
ちなみにプロ野球DeNAの中継ぎ投手パットンは、横浜スタジアムにリリーフカーがあるのに、マウンドまで走っていきます。リリーフカーは今や、日本特有の文化と言えるのかもしれません。
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