連載
#2 ことばマガジン
築地、90年前も大騒動 怒った1千人が「めちゃめちゃ」にしたもの
築地から豊洲に移って11月7日に開場するはずだった東京都の中央卸売市場。ところが、小池百合子知事の就任後、問題が次々と明らかになり、移転の行方が見えません。実は、今からおよそ90年前、日本橋の魚市場が築地へ引っ越す時も、移転の是非を巡って激しい騒動があったようです。昔の新聞記事から振り返ってみました。(朝日新聞校閲センター・町田和洋/ことばマガジン)
「魚市場問題で市会に押寄せた河岸の哥児(哥兄、あにい)連……」で始まり、見出しは「銀座松本楼を襲撃す」。1924(大正13)年3月30日付の朝日新聞の記事です。
「魚市場問題で怒った市場の働き手1千~2千人が、東京市会(議会)に押し寄せて気勢を上げ、(自分たちに不利な)議案が可決されたのを知ると大騒ぎになった。憤激のあまり議案に賛成した(と彼らが思い込んだ)小坂梅吉議員に報復しようと、小坂氏の経営する料理店の銀座松本楼を襲撃、石やれんがを投げつけ店をめちゃめちゃに破壊」とあります。
なぜこんなことが……。まず「魚市場問題」とは何なのでしょう。
東京の魚市場(魚河岸)は、江戸幕府に納めた残りの魚を市中で売ることを許された漁民や商人たちが、船による運送の便のよい日本橋の河岸周辺に集まって、市(いち)を立てるようになったことから始まりました。
幕府の後ろ盾があったとはいえ、魚河岸は民間のもので公設市場ではありません。江戸時代を通じて河岸独特の商習慣や既得権ができていて、明治に時代が替わっても、魚河岸の仕組みは変わりませんでした。
明治政府は、日本橋魚河岸を衛生面などから問題視します。何度か市場の移転新設計画が出てきましたが、財政難などで実現できず。ようやく1923(大正12)年3月に帝国議会で「中央卸売市場法」が成立します。
生鮮食料品の物価を調整し、人口増加に対応しきれない小さな規模の民営市場を統合し、全国に地方公共団体が運営する中央卸売市場を造ろうとするものです。日本橋の魚河岸でも、移転を積極的に考えようとする推進派が現れつつ、反対派の声も小さくなく、話はまとまりませんでした。
そして、1923年9月1日。関東大震災が発生しました。日本橋周辺の魚河岸も壊滅し、明治以来もめ続けた市場移転がここから動き出します。
江戸時代以来の民営市場が公設市場になり、魚市場の仕組みも変わっていきます。魚河岸はいったん芝浦で臨時市場を開いた後、12月1日、東京市が海軍省から海軍技術研究所があった築地の土地を借りて、バラック建ての仮設市場が開かれます。
翌24年3月29日に襲撃事件が起きるのですが、その少し前、3月14日付の朝日新聞の記事に、事件の背景を知る手がかりが書いてありました。
「補償希望を斥(しりぞ)けられ 腹を立てた板船権者 十七日の市会で一嵐ありさうな形勢」とあります。「震災後築地に移転した魚市場の業者のうち日本橋時代に板船(いたぶね)権を持っていた者たちが東京市に補償を求めていたが、通らなかったため魚市場側は非常に憤慨している」というのです。
その一方、記事の後段では東京市の助役が板船権について「(日本橋から)道路が移転しない以上自然消滅すべきもの……、しかし、旧板船権の所有者が困っているのならば、当局として相当の方法を考慮しないわけではない」とも述べていました。
「板船権」とは、路上での営業を保証する江戸時代以来の権利です。板船は魚を並べる幅70センチ、長さ150センチほどの板で、縁に高さ9センチほどの木の枠をめぐらして船状にして水を張れるようにしたものでした。これを日本橋の路上に出して店を出す権利で、相続、売り買いもできました。
板船権を貸して収入を得ていた者は、収入が途絶えるばかりか、新市場に店を持つには新たに使用料を払うことになってしまいます。業者たちは既得権の補償を求め、使用料の支払いなどは納得できないというわけです。
市のあっせんで借りた築地の魚市場の土地の使用料、売上手数料が新たに課せられ、「板船権」などの既得権は消えるということが魚市場の人たちに伝わり、冒頭の騒動に結びつきます。
魚市場の業者が押しかけた議場では、市場使用料などの予算案が可決されてしまいます。憤慨した業者の中から、地元の京橋区(現中央区の一部)選出の小坂梅吉市議をやり玉に挙げる声が大きくなっていきました。そして小坂氏が経営する松本楼を襲撃します。
日比谷松本楼は関東大震災で焼失していますが、尾張町(現在の銀座4丁目)にも松本楼があったようで、こちらが襲われたようです。投石などで窓ガラスや屋内のいす、テーブルなどが破壊され、損害は2千円(現在の約800万円)に上ったといいます。
今回の移転問題ではこんな暴力事件は起こらないでしょうが、早い解決が待たれます。
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