地元
ねぎさんからの取材リクエスト
新潟県知事になる米山氏とは?
医師で弁護士で新潟知事 米山さんって何者? 落選4回の過去も
新潟県知事に当選した米山さんは、医師で弁護士だそうですが、いったいどんな人なんでしょうか ねぎ
10月16日に投開票された新潟県知事選で「原発慎重派知事」が誕生しました。当選した米山隆一さん(49)は、東大卒で医師と弁護士の二つの顔を持ち、「(勉強は)正直、苦労した覚えはない」という経歴。実は、選挙は5度目の挑戦だったという異色の存在です。25日に就任する米山新知事とは、一体どんな人なのでしょうか。
米山さんは1967年、新潟県の湯之谷村(今の魚沼市)に生まれました。実家は養豚農家です。
地元の小学校を卒業後、新潟大学付属長岡中学校に進学。高校は、新潟から遠く離れた神戸市の灘高校に進学しました。その後、東京大学医学部を卒業。92年に医師免許を取得しました。
中高の部活は陸上部で長距離。勉強では「正直、苦労した覚えはない」そうです。
どんな家庭だったのでしょうか。
本人曰く、両親は共働きで裕福ではありませんでしたが、「本だけはいくら買っても良いみたいなところがあった」とか。
「親には構う時間も手段もなかった。面倒くさいから本を与えたんだと思いますが。ゲームはねだれないけど本なら買ってくれるから、ひたすら買ってもらってものすごく読んだんですね。それは確かに後でいきたと思いますね」と米山さんは話します。
そのかいあってか勉強は得意になり、地元ではちょっとした「神童」だったそう。
97年には司法試験にも挑戦し、合格しました。医者になったのは「人の役に立とうと思ったから」だそうですが、自身は「主張したい」性格だといいます。「医者は自分の主張をしているわけではない。でも弁護士、法学は、正しい答えがあるわけではなく、法にもとづいて主張する」。そんな考えが背景にあったそうです。
その後は、独立行政法人「放射線医学総合研究所」やハーバード大学付属マサチューセッツ総合病院で勤務しました。
放医研時代には、1999年、茨城県東海村のJCO臨界事故が発生。事故当日は当直医だったそうです。事故の被害者が一時、放医研に搬送されましたが、あまりの重症に別の病院に移され、直接診療することはなかったそうです。
政界への初挑戦は2005年。帰国し、衆院選で地元の新潟5区から自民党公認で立候補しました。
この衆院選は多数の「小泉チルドレン」が生まれた選挙でしたが、米山さんは地元の大物政治家、田中真紀子氏を前に、あえなく倒れました。
その後も09年に再び自民公認で、12年には維新から公認を得て再挑戦して、いずれも田中氏や自民候補を相手に落選。同じく維新公認で13年夏の参院選に挑むも、自民党、民主党(当時)の候補者2人にはかないませんでした。その後、維新は民主党と合流したため、この春に民進党籍に変わりました。
なぜ国会議員にこだわっていたのでしょうか。
記者の問いかけに米山さんは「制度を作りたいと思ったから」と答えています。「政策通」と自負し、制度や仕組みを考えるのが好きなのだそうです。医療、年金、介護難民、ブラック企業の問題……。どれも、国の制度をいじることで、解決の道筋がつけられると考えたそうです。
落選するたびに「すごく落ち込んで、趣味のテニスもする気にならなくなる」のだとか。
それでも「世の中の制度的な理不尽、仕組み上の理不尽に、説明できない怒りがこみ上げてくる。解決法が思い浮かぶし、そういうの考えるのが好き。ある種の自信をもっていて、起こってくる怒りと、『自分がおそらく正しいことを言っている』と思う信念が支えている」といいます。
最近は、月~水は東京で弁護士、木~土は魚沼の実家に戻って訪問診療の医師、という生活を続けていたそうです。ちなみに、いまも独身だそうです。
全ての流れが変わったのは8月30日。原発再稼働に極めて慎重な姿勢をとり続けていた泉田裕彦知事が突然、「知事選からの撤退」を発表。県民からは高い支持を受けていただけに、新潟県政界に衝撃が走りました。
米山さんが所属していた民進党は独自候補の擁立を目指して、複数の人物との交渉を始めましたが、最終的に断念。特定の候補を応援しない「自主投票」とすることを決めました。
告示が迫るなか、市民団体と共産、生活(当時)、社民は、泉田知事の原発政策の路線を引き継げる候補者を立てようと、引き続き模索しました。最後の切り札として立候補を求めたのが、米山さんでした。
しかし、民進党は既に独自候補を断念しています。要請に応じて立候補すれば、党を離れることになるのは必至。夢だった国政の道は断たれてしまいます。
米山さんは「でも目の前に求められていることがあった」と語っています。制度を執行するのは県。工夫の余地はあり、理不尽さを解消したいという信念も達成できると考えたそうです。
立候補表明の前夜、ツイッター上でこんな歌を詠んでいました。この歌には、そんな「背水の陣」に挑む覚悟を込めたそうです。
【捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ 我が身をぞ 越後の川に 賽(さい)と投げ打つ】
捨ててこそ 浮かぶ瀬もあれ 我が身をぞ
— 米山 隆一 (@RyuichiYoneyama) 2016年9月22日
越後の川に 賽と投げ打つ
米山 隆一
告示を6日後に控えた10月23日、米山さんは、民進党に離党届を出し、無所属で立候補することを表明しました。東電柏崎刈羽原発の再稼働問題については、「原発に慎重だった泉田知事の姿勢を受け継ぐ」と明言。「福島第一原発事故の検証なくして議論はできない」としました。
米山さんは2011年の福島事故後も、原発の活用を主張していた時期があります。自身のブログには「原則すべての原発を再稼働すべきだ」などと記した12年ごろの記事が残っています。このことについて米山さんは、原発推進派だったことを認め、「1年、2年たったら収束するだろうと思っていた。5年経った今でも収束のメドはたっていない。本当の危険をわかっていなかった」と、考えを改めた理由をブログや会見で繰り返し説明しています。
選挙戦が始まると、立候補を求めた市民団体や政党が支援しました。自主投票の民進党からも、米山さんと個人的なつながりがあったり、脱原発を唱えたりしている議員らが応援に入り、最終盤には蓮舫代表も、新潟市内の集会に駆けつけました。
短い準備期間での戦いを強いられた米山陣営でしたが、自民、公明の推薦候補との戦いは「激戦」に。投開票の結果、約6万3千票差をつけて当選を果たしました。朝日新聞の世論調査で過半数以上が「原発再稼働に反対」だった、新潟県民の民意に後押しされたと見られています。
米山さんは泉田知事との引き継ぎを済ませ、25日から知事としての仕事がスタートします。
県民の付託を受けたとはいえ、行政経験はゼロ。議会では、米山さんが争っていた候補を推薦していた自民、公明両党が大多数を占めています。果たしてどんな仕事ぶりを見せるのでしょうか。米山さんの手腕が注目されます。
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