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文字通り「本に埋もれて死んだ」古書店主 亡き妻への手紙が感動呼ぶ
「本に埋もれて死ねたらええ」。大阪で知る人ぞ知る古本屋「青空書房」の坂本健一さんが93歳で亡くなりました。生前の言葉通り、本が山積みの店舗兼自宅で息を引き取りました。戦時中は論語に詩集をはさんで出陣。約70年間、大阪・天神橋筋商店街の近くで小さな店を営み、文豪から若者まで愛された人でした。本の山から見つかった遺言書には、亡き妻への温かい言葉がつづられていました。(朝日新聞大阪本社社会部記者・宮崎園子)
亡くなったのは7月2日、心筋梗塞(こうそく)でした。家族が見つけた遺言書には、《父が死んだら葬式するな ひとに知らさず直葬にしなさい》。4日、家族や友人ら約20人に見守られて、荼毘(だび)に付されました。
坂本さんの訃報を受けて、ネットに突然の死を惜しむ声があふれました。「坂本さんの言葉や背中に励まされたひとは多い。僕もその一人」「本の魅力をたくさん伝えてくださってありがとうございました」「悲しくて、心にぽっかりと穴が開いたような気分です」。亡くなったいまも、店を訪ねる人が後を絶ちません。
坂本さんを一躍有名にしたのは、休業日に毎週手描し、下ろしたシャッターに貼り出した「ほんじつ休ませて戴きます」のポスターでした。70代まで無休でしたが、通院などから定休日を設けることになり、「知らずに来る人に申し訳ない」と始めたそうです。
四季折々の味のあるイラストに、大阪への愛や社会風刺あふれるひと言。これを見たいがために、わざわざ店が休みの日にやって来る人も現れました。ブログやSNSに投稿する人もいて、人気が広がりました。
1日1冊、本を読み続けた坂本さんの読書人生の始まりは15歳。モーパッサンの「女の一生」を読み、「生きる人間の魂」に衝撃を受けたといいます。太平洋戦争が始まり、赤紙が来た日はロマン・ロラン「ジャン・クリストフ」を読み、「愛と勇気を学んだ」。出陣する際は、「西洋ものは何言われるかわからん」と三好達治の詩集「花筐(はながたみ)」を「論語」に挟んで携えました。
終戦を迎えたのは22歳。翌年春、家族を養うため、岩波文庫100冊を闇市で泣く泣く売ったのが古本屋を開くきっかけに。夜間学校で学びながら少しずつ集めた愛読書でした。「体から血が奪われていく感じ」だったそうです。
食べるものにも困っていた時代ですが、本は飛ぶように売れたそうです。「敗戦で耐え難い屈辱を味わった人たちは知的欲求にも飢えていた。それが復興の原動力やった」。坂本さんはそう話していました。
長く、天五中崎通商店街に店を構えていましたが、2013年末に健康不安からいったん閉店。しかし、年明け、店の看板をすぐ近くの自宅にかけ替えて、営業を再開しました。心臓が悪く、医者に入院を勧められましたが、「病院でチューブにつながれるくらいなら、ここで人とつながっていたい」と拒みました。
店舗兼住居は細い路地にあるため、大通りから見つけやすいよう、「二度とない人生 ここでしか無い一冊」と書いた大きなポスターを玄関に貼り、ドアを開けっ放しにしていました。毎朝、近くのかかりつけ医で点滴を打ってから客を迎えました。開店の準備や閉店時は近所の人たちがお手伝い。若い人たちが訪ねてくるのを特に喜び、笑顔で迎え入れては、人生論や読書論に花を咲かせました。
自宅に移ってからは、「休みます」のポスターは描かなくなりましたが、所用で自宅を離れるときなど、イラスト付きのメモを貼り出していました。
《ローソンにいってます 18分23秒で戻ります》
《デイサービスに行ってます PM1じ23分5秒には帰ってます》
本を通じた人々との交流を楽しみに過ごした坂本さんですが、実はこの5年ほど、心に大きな穴が開いていました。2010年の冬、6歳年下の最愛の妻、和美さんを亡くしたのです。
28回目の見合いで出会い、26歳のときに結婚。2人の子を育てながら、親の介護を懸命にした和美さんは、近所の人たちにはしっかり者の奥さんとして知られていました。不器用な夫に代わり、本棚の手入れといった大工仕事も。仕入れとウソをついて坂本さんがふらふらと散歩に出ていっても、黙って許すやさしい人でした。
店は、和美さんとの二人三脚の思い出がつまった場所。だからこそ坂本さんは死ぬまで守り続けました。
遺言書には亡き妻への思いがあふれていました。
「やっと奥さんと一緒になれてよかったね」。親しい友人たちは涙を浮かべながら口をそろえました。
遺言書は今年1月25日の日付とともに、そんな言葉で締めくくられていました。
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