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お金と仕事

ビームス40年、社長が語るこれから「今度は日本をブランディング」

セレクトショップのビームスが今年、40周年を迎えました。この先、ビームスはどこに向かうのか。設楽洋社長に聞きました。

設楽洋社長「会社の規模は100倍以上になったけど、若者の風俗・文化を変えようと始めた当時の思いは同じです」
設楽洋社長「会社の規模は100倍以上になったけど、若者の風俗・文化を変えようと始めた当時の思いは同じです」

目次

 セレクトショップのビームスが今年、40周年を迎えました。最新のファッションや文化の発信、異業種との様々なコラボ企画などで、私たちを楽しませてくれています。この先、ビームスはどこに向かうのか。設楽洋社長に聞きました。

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「ニケ」というスニーカー買い付けた

 1976年2月、東京・原宿に6.5坪のビームス1号店がオープンした。「アメリカンライフスタイル」を掲げ、アメリカ・西海岸の大学生の部屋をイメージした店内に、米国から仕入れた服と雑貨を並べた。創業者は設楽洋社長の父で、段ボール製造業を営んでいた故・設楽悦三さんでした。

設楽社長「私は当時、広告会社で働きながら、父親の会社の手伝いをしていた。あの頃は海外の情報があまり入らない時代で、米国で『ニケ』というスニーカーが人気と聞いて買い付けたが、販売時に『ナイキ』だと知りました。いま、会社の規模は100倍以上になったけど、若者の風俗・文化を変えようと始めた当時の思いは同じです」(以下、「」は設楽社長の話)

オープン当時のビームス1号店
オープン当時のビームス1号店

「こういう店を出そうよ」

 その後、東海岸のプレッピースタイルに影響を受けたビームスF、最先端モードを伝えるインターナショナルギャラリービームス、レディース向けのレイビームス、こども服を扱うこどもビームスなど、様々な店舗をオープンしてきた。
 
「多様性がビームスの強みだと思っています。私たちは事業計画ありきの会社ではない。もちろん、企業ですから売り上げや利益は追求します。ただ、社員からの『こういう時代だから、こういう店を出そうよ』という声を大事にしてきた」

「子ども服も同じです。僕の子どもが小さかったころ、日本にかわいい子ども服がなく、アメリカでよく買ってきた。あるとき『ビームスで子ども服をやろう』と提案したら、社員たちから反対されてね。『ビームスはベビーカーを押した客が入るような店ではありません』と」

「でも、20年がたち、社員にも子どもができるようになると、今度は社員から子ども服をやりたいという声が上がった。何十年も前に同じことを言ったよと思ったけどね」

1号店があった場所に立つメンズカジュアルを扱う「ビームス原宿」
1号店があった場所に立つメンズカジュアルを扱う「ビームス原宿」

1989年の「事件」

 順調に拡大を続けるビームスだが、すべて順風満帆だったわけではない。1989年には、幹部社員を含む約30人が辞め、ユナイテッドアローズを立ち上げる「事件」が起きた。社内が動揺する中、設楽社長は若手社員を抜擢し、責任ある仕事を任せた。社員も期待に応え、新しいビームスの基礎を作り、カリスマバイヤーと呼ばれる社員が次々と誕生した。風通しのいい社風はビームスの特徴だ。

「いつMD(マーチャンダイザー)やバイヤーを世代交代させるかを考えるのが一番難しい問題です。でも、あのときは自然発生的にそうなった。そこからまたビームスの歴史を積み重ねてきたし、それが今の成長につながったと思っています」

「ビームスはカリスマデザイナーがいて、服のデザインから何からすべてを考える店ではない。日々、店頭に立っている人間に、シーズンごとに「こういう商品がほしい」と提案してもらい、その商品が店に並びます」

「店も、東京の原宿、新宿、大阪・梅田ではレイアウトも違います。店頭でお客さまとリアルに接している店員が考えて店作りをする。そうやって店頭に並べた商品を、多くのお客さまが買っていくことが、彼らの最大の喜びだと思う」

ビームスのショップバッグ。中高生がカバン代わりに使うほどブームに。2006年まで使われていた
ビームスのショップバッグ。中高生がカバン代わりに使うほどブームに。2006年まで使われていた

敏感な人たちの声を商品化

 ビームスは90年代以降、インテリアや音楽など、ビームス流のテイストでライフスタイル全般を提案。2000年代に入ると、異業種とのコラボレーションが増えていく。ホテルやマンションの部屋をプロデュースし、富士重工業とはオレンジ色の自動車を共同開発した。家電やカップ麺などコラボは多岐にわたる。

「我々は店頭で毎日、流行に敏感な人たちの声を拾っている。そうした声の中に、プロが見えない新たなヒントが眠っていることがあります。それを生活者の代表として、新商品の企画に生かしていきたいと考えました。それが様々なコラボにつながりました」

2007年に富士重工業とコラボレーションした「インプレッサ ビームスエディション」。オレンジ色の車体が目を引く
2007年に富士重工業とコラボレーションした「インプレッサ ビームスエディション」。オレンジ色の車体が目を引く

「これからは日本のいいものを海外に」

 40年を迎えたビームス。次を見据え、来月には新プロジェクト「ビームス・チーム・ジャパン」がスタートする。新宿のビームスを改装し、日本の名品や文化を発信する店舗を作る。かつて米国文化を日本の若者に紹介したビームス。今後は日本の文化を世界に発信していくという。

「私たちは、海外のライフスタイルを日本の若者に紹介したいと思ってスタートしました。あれから40年がたち、日本人のセンスは海外の人たちを追い越した部分もある。東京は何でもそろうし、食べ物だっておいしい」

「40年間、海外のいいものを紹介してきて、これからは日本のいいものを海外に紹介したいと思うようになりました。東京五輪を控え、世界中の人たちが日本に注目する。その中で、本当に良い物をそろえて日本をブランディングして、海外の人に見てもらいたいと思っています」

ビームスの設楽洋社長
ビームスの設楽洋社長

「コトからヒトへ」

 最後にビームスの将来像を聞いた。

「21世紀を迎えたとき、僕は「モノからコトへ」と言いました。モノを売ることで、何かを起こそうと。最近は「コトからヒトへ」と言っています。ビームスという一つのコミュニティーに、社員や取引先、お客さまが集まってくる、そういうコミュニティーブランドになりたいと思っています」

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