連載
#81 イーハトーブの空を見上げて
「今もまだ、うまく話せない」居酒屋と漁船、二つの〝福寿丸〟の物語

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#81 イーハトーブの空を見上げて
Hideyuki Miura 朝日新聞記者、ルポライター
共同編集記者周囲がすっぽりと夕闇に包まれた師走の午後5時。
小さな飲食店が軒を連ねる盛岡市内丸の一角に、赤ちょうちんの灯がともる。
居酒屋「福寿丸」。
10人も入ればいっぱいになりそうな店内で、店主の岩城和哉さん(66)とパートナーの小野寺淳子さん(61)が、忙しそうに客に料理を提供していた。
壁には1葉の写真と、30年前の新聞記事が貼ってある。
写真に写っているのは、漁船「福寿丸」。
大船渡市三陸町で漁師をしていた父の鉄郎さん(92)と弟の史朗さんが長年、ホタテ漁などで使い続けた1.9トンの小型漁船だ。
新聞記事は、釜石市で撮影された人気映画「釣りバカ日誌」に、鉄郎さんと史朗さんがエキストラで出演したことを報じる内容で、はにかんだ笑顔の2人の写真が添えられている。
記事を見るたび、和哉さんの胸の中には「2人ともいい笑顔だな」という気持ちと、「申し訳なかった」という思いが交差する。
「本当なら、俺と史朗が入れ替わっていたはずだった」
和哉さんは高校卒業後、鉄郎さんの後を継がず、調理人をめざして上京した。
代わりに史朗さんが故郷に残り、漁業と漁船「福寿丸」を継いだ。
だから、和哉さんは東京で修業を終え、約30年前に盛岡に店を出した時、迷わず「福寿丸」の名前をつけた。
長男なのに家族を置いて故郷を離れたことに、どこか後ろめたい気持ちがあった。
優しい性格の史朗さんは、兄をとがめるわけでもなく、「これ、うまいから。客も喜ぶぞ」と、毎週のように新鮮な魚介類を店に運んできてくれた。
「いつもニコニコして優しい男で、周囲であいつを悪く言うやつなんて誰もいなかった」
2011年3月11日、史朗さんは大船渡市で黒い渦にのみ込まれた。
45歳。少年野球の監督を務める地域のリーダーで、後には妻と中学生の息子が残された。
市内にいた鉄郎さんは、あの日のことを忘れない。
「史朗は午前中に漁を終え、高台の自宅に戻っていた。でも地震が起きて、消防団員だったから、『津波が来るぞ!』と住民を高台に避難させて、自分は水門を閉めに行っちまった……」
あの日から、何年経ったろう――。
「そう言えばさあ、岩手でも震災あったでしょ? どうでした? 盛岡でも結構揺れました?」
酔客が酔いに任せて尋ねると、和哉さんは苦笑いしながら、「そうですねえ。ここらでも結構揺れたんですよ」と受け流す。
「揺れた? やっぱり揺れたんだ!」と上気したように言う酔客を諭す。
「揺れました。とても激しく。でもね、岩手の人、震災については、今もまだうまく話せないんですよ」
和哉さんがそらした視線の先に、福寿丸の写真と新聞記事がある。
(2023年2月取材)
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