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連載

#170 鈴木旭の芸人WATCH

欽ちゃんが語る〝令和のお笑い〟AI時代でも「大丈夫」と言える理由

鍵を握るのは〝浅草の軽演劇〟でした

浅草で修業していた若き日のことから令和の生成AIと笑いについてまで幅広く語ってくれた〝欽ちゃん〟こと萩本欽一さん=いずれも河原夏季撮影
浅草で修業していた若き日のことから令和の生成AIと笑いについてまで幅広く語ってくれた〝欽ちゃん〟こと萩本欽一さん=いずれも河原夏季撮影

目次

かつて「視聴率100%男」と呼ばれた〝欽ちゃん〟こと萩本欽一さん(84)。半世紀以上テレビの現場に携わってきた欽ちゃんは、「令和の笑い」や「AI」の出現をどう見ているのでしょうか。〝レジェンド〟の歴史と重ねながら語ってくれました。(聞き手:ライター・鈴木旭)

体で覚えるのは22歳まで

<欽ちゃんは高校卒業後、浅草での修業を経て、故・坂上二郎さん(1934~2011)とのコンビ「コント55号」で人気を博した。1980年代には、週3本のレギュラー番組が軒並み高視聴率を記録し、合計で100%を超えたことから「視聴率100%男」と呼ばれた。昨年、BS日テレでバラエティー番組『9階のハギモトさん!』をスタートさせ、80歳を超えた今も現代の世相を見つめながら新たな挑戦を続けている>

――生成AIが、小説、音楽、バラエティーなど様々なエンタメに影響を与えています。今後、AIはなくてはならない存在になると思いますか?


言葉にするとね、AIって〝肥満の頭脳〟だよ(笑)。だから、動きが悪くなる。ここを突く以外はないね。だって、人間が考えたあらゆる知識から抜き出して、一番いい答えを持ってるわけでしょ? そっちじゃかなわないよ。

だけど、大丈夫。日本には、「間(ま)」と日本舞踊の「溜め」があるから。AIには、そういう〝空気をつかまえる〟ってことはできないんですよ。しゃべる笑いはAIでも考えつくだろうけど、さすがに動きは覚えられないと思う。

――人間があらゆる指示を出したとしても難しい?

人間が指示しても無理。いかに精度が高いかを競うことになるだけだろうね。画期的な発明っていうのは、「教えられてないもの」を探すわけですから。AIでは、ぶっちぎりのものは生まれないだろうね。

そんな時代だからか、「言葉で笑わすな」っていう浅草の軽演劇(ストーリーやメッセージ性よりも娯楽性を重視した演劇 ※1)はどんどん優位になってきている。だけど、上演しているトコがゼロ。バブルで次々と劇場が潰れて、もう永久に消えちゃった。私は4年ぐらい修業しただけだから、完全にマスターしたわけじゃないの。目で覚えているだけ。

けど、私が軽演劇を最後に覚えたコメディアンだとも思ってる。その芸をテレビでそうっと使い続けて80代までできたんですよ。

私が浅草で修業を始めたとき、先輩から「お前、いくつなんだ?」って聞かれて「18歳です」って答えたら「遅ぇよ」って言われたのね。「えっ……でも、大宮デン助さん(1913年~1976年。戦後の浅草喜劇界やテレビで一世を風靡したコメディアン ※2)から『これからは、高校ぐらいは行っといたほうがいい』って聞いたんで」って返したら、「遅い、遅い。頭で覚えるのはいくつになってでもいい」って言うの。

続けてね、「体で覚えるのは22歳まで。お前、あと4年しかないんだよ。(左手の親指以外の4本指を開いてできた3つの谷間を上から順に指差しながら)しかも、ここに博打、ここに女性、ここにお酒が出てくる。だから、お前には時間的な余裕がないとだけは言っとく」って言われたの。

浅草には、小学校か中学校を出た先輩しかいないんですよ。全員体の使い方で笑わすんだよね。そこで頑張ったのもあって、私その4年以上は修業したことないです。コントなんて台本書かなくても出て行きゃ大丈夫。今の人は、みんな台本を書いているっていうでしょ?
 

1人前の検定試験はアドリブ芝居

――今はお笑いの養成所がありますし、IT化も進んでネタ台本を書くのが一般的になっていますね。

それは勉強。テレビって、勉強して作ったものはチャンピオンになれない。昔、テレビ局の人に言ったのは、「勉強した人にはテレビできないよ」ってこと。それで、「どうすりゃいいの?」って聞いてくるから、「修業をするの」って答えたことがあるんだ。

つまり、誰かに教えてもらうんじゃなくて、ディレクター自身が前説をやれば「何かに気付くよ」ってことね。だから、『欽ドン!』(『欽ちゃんのドンとやってみよう!』シリーズ)でも『(オレたち)ひょうきん族』でも、フジテレビのディレクターはみんなお客さんの前に出てやってた。そしたら、みんなのちに高視聴率を取ったんだよね。聞くだけではダメ。やればわかる。

あと俺、浅草の修業時代に先輩が言うことをメモしていたら、すごく怒られた経験がある。「あーっ、書くんじゃない! 頭で覚えてやったらお客さん笑わないよ。自分で動いて覚えろ」って言うんだ(笑)。

実際にね、演出家の先生が演者に「明日からコントが変わるから。衣装は出しておく。以上」って言ったきり、その後に何にも打ち合わせしないの。「どうするんだろう?」と思って見てたら、衣装を着て出て行った演者がドッカンドッカンウケてるわけ。「こりゃ何だろう」って思ったね。

――コントの3つの基本(同じボケを繰り返す「天丼」、相手に伝わらないもどかしさで笑いを取る「仁丹」、ルールに縛られてあべこべな掛け合いを見せる「先後(せんこう)」 ※3)さえ押さえれば、あとはアドリブで笑いをとれる?

そうです。3つの基本と、あとは枝分かれかなっていう。浅草で修業して1年経つと、1人前の検定試験みたいなのがあんのよ。芸者さんの格好で、お酒と徳利を持って出て行って、客席にトコトコ歩いて「あら、ハナちゃんきてんの?」なんて芝居をアドリブで30分やるの。

――検定試験がアドリブ……。そこが今のお笑い芸人さんとの違いだと思います。

今は「動きで笑わす」ことってほとんどないですよね。みんな言葉だから、もうかなわないし見事だし、文句ないよ。次々に新しい言葉が出てくるしね。

――ただ、欽ちゃんのアドリブには安心感があるんですよ。台本を練ったネタ以上のものを見せてもらえている気がするというか。

うまいね、褒め方が(笑)。たぶん、それは「今気付いて言ってるか」ってトコだろうね。稽古したネタって、かっちりと決まった一昨日のネタをお客さんに見せてるようなものだから、鮮度が落ちるんだと思う。

あと、もうひとつ。今のテレビってね、一番笑ってくれる若い人が観覧席に座ってるんですよ。俺、コント55号のときは一番笑わないおじさんしか入れなかったから。『欽ドン!』は若い人たちを入れてたけど、『欽どこ』(『欽ちゃんのどこまでやるの!』NETテレビ系→テレビ朝日系)もおっかさんたちしか入れてないんです。

――それぞれの番組で意識していた演出も違いますか?

『欽どこ』では、軽演劇を少ぉしやろうかなと思ったんですよ。毎回だとくさくなる(見慣れてしまい、ウケなくなる)から、月1回ぐらいのペースでね。

例えば俺が「やめたほうがいい」って言ったら、本当にみんなやらなくなった演じ方があってさ。当時、オシッコしたい人を表現するときはみんなこうやってたの(股間に手を当てモジモジしながら早歩きするマイム)。「それ、どこで見たの?」って聞いたら、これが芝居だったんですよ。

それで私が、「本当にオシッコしたい人は、焦ってるのを見つからないように歩いてんだよ」って言ってさ。けど、それじゃ見てる人がわかんないじゃない? それで俺が実演して見せたの。(椅子から立ち上がり、歩き出す)まず普通に歩いて、ここでもない、ここでもない……(トイレに入る寸前、タタッと小走りして)ここだけ!

最後の急ぐ感じをちょこっと残すのがコツなの(笑)。こういうのを大人はドッと喜ぶんですよね。これは私が作ったんじゃない。私の先輩たちが見せてくれてたの。

ほかの番組では、今(1980年代初頭の「漫才ブーム」が盛況した時代)のテレビっていうんで、ほとんど言葉で笑わす方向でしたね。

志ん生で最初に笑いにハマったの

――欽ちゃんの時代に「浅草や新宿での修業を経て、日劇ミュージックホールや日本劇場に出る」という出世コースがあったように、今の人たちは「ライブでネタを磨いて、お笑いコンテストの決勝に残る」のが知名度を上げるセオリーになっています。

なるほど。「お客さんに一番ウケるのは何だろう」って考えてるんじゃなくて、「あの審査員が酔うのはこういうネタだ」ってことでやってるんだろうね。頭のいい子たちが出てきてるから、コンテストの傾向を分析してネタを作ってる。

ただね、「本当におかしいのを見せて笑わせる」修業は、お客さんが答えを教えてくれるんですよ。いつも思うのは、笑いって「空気がおかしい」ってことなんだ。

昭和の時代は、その人が出てくるだけで空気が変わるってことがすごくあった。俺、5代目・古今亭志ん生さん(1890~1973、昭和を代表する落語の名人のひとり ※4)のくたびれたような佇まいね、あれで最初に笑いにハマったの。

落語家はお客さんに向かって「えー、お客さま。どうも」と話すのに、志ん生さんは「えー……」って下を向いてしゃべり出す(笑)。何かを探してるみたいに「……でありますから、昔ぁどうも、う~ん……」なんて全然始めないから、こっちは早くやってくんねぇかなって笑っちゃうんだ。

お客さんには不親切なんだけど、あの空気がたまんなくてさ。すごい人だなぁと思って。中身はないんだけど、仙人のようで。こういうのが芸って言うんだろうなって思った。

――「そんなことはないんだけぇど」とか舌っ足らずなところもかわいらしいですよね(笑)。あの空気感は、ツカミとかネタ以前のものだと思います。

そう、そう。あと、ネタがどっから入ってくるかもわからないんだ。「あ~誰だぃ? う~ん……」なんて突然始まる。何でこんなに一つひとつの空気がおかしいんだっていうね。もういるだけでみんながクスッて笑っちゃう、「こういう空気の人のそばにいたいな」って思ったね。
 

波が教えてくれたコントと企画

――欽ちゃんがおっしゃっているコントの「フリ」と「コナシ」は、浅草の劇場で体得したものなんですか? 

あれは軽演劇じゃなくてね、自分で見つけたんです。(坂上)二郎さんとコンビを組んで、最初は私がボケだったんだけど、どうもウケないんでツッコミをやるようになったの。けど、ツッコミをやったことはなかったわけ。

「それダメじゃねぇか」とかってやるんだけど、つまんねぇなって。で、いろいろ考えてたら、「いや、待てよ。これウケてるのはツッコミじゃないな。いいフリをするってことだ」と気付くんだよ。

実際にやってみたら、俺が言う不思議な「フリ」を二郎さんが見事に「コナシ」ていくの。漫才は「ツッコミ」と「ボケ」って言うけど、俺のツッコミは3分の1ぐらいで、あとは曖昧でキレのある指示をあれこれと出して一生懸命振ってるんだ。

しかも、二郎さんはボケようとしてんじゃない。俺の言うムチャ振りを何とか成功させようとしてる。だって、二郎さんは普通の人ですもん(笑)。

テレビがそのやり方に気付かせてくれたってことかもしれないけどね。

――それより以前、熱海にあった「つるやホテル」の専属コメディアンだった頃の経験が生きたこともありますか?

熱海の海岸で、〝波〟から教わったことがある。こう波がね、ズズズズ……ザァーン!ズズズズ……ザァーン!あのリズムが何ともいいんですよね。『欽ドン!』の「良い子悪い子普通の子」(視聴者投稿の会話をベースにした人気コーナー ※5)もそう。

波のズズズズ……ザァーン!って激しい音を聞いてたら、「良い子悪い子普通の子」が出てきた。波が飽きずに繰り返してくるあの音が何ともいいの。引き際も、スゥ~っていなくなって、あのリズムが飽きないんだ。なんか困ったら眺めてたね。

けど、それはフジテレビの局長さんのいい言葉もあって出てきたのよ? 当時、21時台はドラマ枠で「視聴率30%を割ったことがない」って時代なの。そこに俺が「やりたい」って言って、番組をやったらコケちゃったんだよ。

それで、局長さんに謝りに行ったら「この枠を10年分預けるから、まずは半年かけて1回当ててくれ」って言われて、「それなら当たる」と思った。けど、いい言葉が出そうで出ない。そんなときに波を眺めてたら浮かんだんだよね。
 

浅草軽演劇は関西の笑いが入っている

――ご自身の著書『なんでそーなるの! 萩本欽一自伝』(集英社文庫)の中で“欽ちゃん走り”はコメディアンの東八郎さん(1936~1988、浅草で修業中の欽ちゃんを育てた師匠のひとり ※6)を真似たものと書いていますが、あれも軽演劇の動きなんですか?

厳密に言うと、横に腕を振って走ったのは(お笑いタレントの)小堺一機が作ったようなものです。劇場では横から出るのが普通なんだけど、テレビってステージの奥から出されるわけ。奥から出て普通に歩いてると、すっげぇみっともない。なんか気持ち悪いし、すっごい恥ずかしいんだ。

恥ずかしいとね、ちょっと肩が上がって突っ張っちゃうのよ。そのまま真っすぐ歩くんじゃコメディアンじゃないなと思って、自ずと腕を横に振る動きになったの。照れが出たんですよ。それを小堺が「欽ちゃん走り」とか言って平気で真似してさ、俺も「これやんないと小堺に悪い」と思ってやったんだ。

俺の師匠でもある東さんは、舞台でよくやってましたよ。急いで逃げるときとか、「あ、わかるな」って走り方をね。盗んで逃げるときの走り方は、また違うわけですよ。つまり、役によって使い分けてやってたってことなの。

――東八郎さんも浅草の劇場で体得したと考えると、軽演劇の世界は奥深いですね。

私が考えるにね、アメリカからチャプリン(1889~1977、イギリス出身のコメディアン ※7)の笑いを取り寄せて、松竹新喜劇(※8)とか曾我廼家(そがのや)十吾さん(1891~1974、上方の喜劇役者 ※9)とか関西の笑いを取り入れながら、鍋ん中でうま~く料理したのが浅草軽演劇だっていう気がしますね。だから、当時のコメディアンがそのふたつを吸収していったもので、自分で考えたってものはないと思う。

――曾我廼家十吾さんは、たしかに「アドリブ王」とも言われています。

そうでしょ? 俺からすると、東京と大阪の笑いは違うなんて言うけど、「そんなこたぁねぇんじゃねぇの」と思っちゃう。どうも浅草軽演劇には「松竹新喜劇とか十吾さんが入っちゃってるなぁ」っていう気がするんだ。もともと東京にはないものだから、その時代にやっていたコメディアンがどっかで修業して引っ張り出してきたんでしょうね。
 

優れモンと記者が歴史を作る

――ストリップ劇場の幕間でコントを披露する文化は、アメリカのバーレスクを思わせます。それだけでなく、関西の笑いも入っていたと。

浅草軽演劇と言ってるけど、「誰がいつ言い出した?」って話はどこにも載っていないんです。徹底的に調べても、誰ひとりとして知らなくてさ。最後に演芸番組をたくさん作っていた元NHKディレクターの滝大作さん(1933~2024)に聞いてみたら、「昔、東京日日新聞の記者が『新劇』って言葉があったんで、違う言葉にしようってことで軽い芝居の『軽演劇』を作った(※10)」とおっしゃってました。

つまり、新聞記者が考えた言葉。「『軽演劇』を発明したコメディアンはいない」ってことがわかったの。新聞って文字数が限られるから、「浅草の演劇」を「軽演劇」にしちゃったんだろうね。立ち回りをやる「剣劇」でも何でも、笑いさえあれば浅草でやってるものは全部「軽演劇」だって。

これが笑いの歴史だと思う。うまくマスコミの言葉を利用して、それを看板にやっていけば歴史に残る言葉になる。だから、活字って大事だよ。「軽演劇」って言葉がずーっと残っていくんだもん。

――最初に書いた記者も、ここまで長く残るなんて思わなかったでしょうね(笑)。

あと、「俺が書いた」って偉そうに言わないトコがすごいよな(笑)。誰かわかんないけど、少なくとも新聞記者だろうってトコにたどり着いたわけ。だから、歴史って作っていくものなんです。

優れモンが出てきたとき、初めて進歩する。それに相応しい決定的な言葉が出てくれば、それが歴史に残るんだよ。そういう連中が出てくる限り、エンターテインメントは永久に続くだろうし、テレビがなくなるってこともないと思うんだよね。
 
萩本欽一(はぎもと・きんいち)さん:1941年生まれ。高校卒業後、浅草での修業を経て、故・坂上二郎さんとのコンビ「コント55号」で人気に。1980年代には、週3本のレギュラー番組が軒並み高視聴率を記録し、合計で100%を超えたことから「視聴率100%男」と呼ばれた。2015年に駒澤大学仏教学部に入学し、2019年に自主退学。1月12日には『欽ちゃん&香取慎吾の第101回全日本仮装大賞』(日本テレビ系)が放送された。
  ◇  ◇  ◇

以下、敬称略。
(※1)軽演劇(けいえんげき)……ストーリーやメッセージ性よりも娯楽性を重視した演劇。狭義には1920年前後にブームを巻き起こした東京・浅草の「浅草オペラ」を素地とする歌や踊り、笑いを交えたもので〝エノケン〟こと榎本健一の劇団「カジノ・フォーリー」や古川ロッパの劇団「笑の王国」などの喜劇が有名。広義には「松竹新喜劇」、「吉本新喜劇」など上方の喜劇も含まれる。『小林信彦 萩本欽一 ふたりの笑タイム 名喜劇人たちの横顔・素顔・舞台裏』(集英社文庫)の中で、欽ちゃんは「(軽演劇の)台本には一切『笑い』の要素は入ってない」「(例えば演出家から「笑いを少し入れろ」と言われたら)それに応えてどう笑わせるかっていうのが軽演劇のおもしろさ」だったと述懐している。

(※2)大宮デン助……大宮敏充。戦後の浅草喜劇界やテレビで一世を風靡したコメディアン。1946年に「デン助劇団」を結成。浅草松竹演芸場を拠点に演出・脚本・主演をこなすなど、浅草を代表する存在として活躍した。欽ちゃんは、中学3年生のときに弟子入りを志願するも「高校を出てから」と断られ、高校卒業後に演出家・緑川史郎と偶然再会し「断られたら僕のところにおいで」と言われたため、最初からデン助のもとへ行かず東洋劇場に入った。

(※3)コントの3つの基本……浅草三大コントと呼ばれる名作「天丼」「仁丹」「先後」がもとになった笑いをとる3つの手法。これを応用してコント55号はネタを披露していた。

①天丼――何をやってもうまくできないボケ役に、もうひとりの相手役が指南しながらツッコミを入れていくパターンのコント。ボケ役はやればやるほどできなくなっていく。

②仁丹――女物のハンドバッグを拾って猫ばばしようとするスリ師ふたり組と、それを怪しいと睨んで尋問する警官との攻防で笑わせるトリオコント。スリ師が警官の死角でバッグの中身を覗き込み、ジェスチャーで相棒に伝えようとするもうまくいかない。

③先後――「先輩後輩」の略で、関西では「丸三角」とも。先輩が後輩にナンパの仕方を教えるという筋のコント。「女の子が〇、お前が△に入ったらハンカチを落として声をかけろ」というルールに縛られ過ぎて本来の目的を忘れてしまったり、極端に守ることでトンチンカンな振る舞いをしてしまったりする。

(※4)5代目・古今亭志ん生(ここんてい・しんしょう)……15歳で家を飛び出し、放蕩のあげく噺家に。技術は一流でも、人気が出るまでには苦労を重ねた。酒や貧乏にまつわる逸話も多く、戦後はその天衣無縫ぶりが江戸っ子に愛され、名実ともに天才落語家として開花した。

(※5)「良い子悪い子普通の子」……『欽ドン!良い子悪い子普通の子』から生まれた人気コーナー。視聴者投稿の会話をベースに、父親役の欽ちゃんと息子の「フツオ」(長江健次)「ヨシオ」(山口良一)「ワルオ」(西山浩司)との会話を三段落ち形成にして笑わせた。息子の3人は、番組発のユニット「イモ欽トリオ」としても一世を風靡。シングル曲「ハイスクールララバイ」が大ヒットした。

(※6)東八郎(あずま・はちろう)……昭和を代表するコメディアンのひとり。欽ちゃんの番組や『志村けんのバカ殿様』(フジテレビ系)シリーズで人気を博す。コメディアン・池信一が浅草の東洋劇場を去った後、修業中の欽ちゃんを育てた師匠でもある。

(※7)チャプリン……チャールズ・チャプリン。イギリス出身のコメディアン、映画監督、脚本家、映画プロデューサー、作曲家。アメリカ巡業中に映画業界からスカウトされ、以降は『街の灯』、『モダン・タイムス』、『ライムライト』など数々の喜劇映画を制作。世界的な人気を博した。

(※8)松竹新喜劇……1948年、大阪・中座で旗揚げ。コメディアン・作家の曽我廼家五郎(そがのやごろう)の死をきっかけに「松竹家庭劇」と「劇団すいと・ほーむ」が合体し誕生。2代目・渋谷天外(しぶやてんがい)の作品、役者・藤山寛(ふじやまかんび)は一時代を築いた。

(※9)曾我廼家十吾(そがのや・じゅうご)……大門亭大蝶一座で子役としてデビュー。以降、大阪で流行していた「俄(にわか=即興劇)」を吸収し、「松竹家庭劇」「松竹新喜劇」の旗揚げメンバーとしても活躍。アドリブの名手であることから「アドリブ王」と呼ばれた。「とうご」とも読む。

(※10)「軽演劇」の由来……欽ちゃんの言う新聞記者が考えた説のほか、①1924年、西洋風で近代的な演劇「新劇」の常設劇場・築地小劇場がオープンし、これに対抗して作られた説。②昭和に入り、軍艦を作る産業が「重工業」と言われ始め、その対照語としてシャレで作られた説。と複数ある。
 

【動画】欽ちゃんがAIに物申す!

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