紫式部が主人公の大河ドラマ「光る君へ」。紫式部が仕えた彰子さまのもとには、赤染衛門や和泉式部といった知的な女房たちも出仕していたといいます。和歌の天才とも呼ばれる和泉式部はどんな人だったのか、平安文学を愛する編集者・たらればさんに聞きました。(withnews編集部・水野梓)
withnews編集長・水野梓:大河ドラマ「光る君へ」では、まひろ(吉高由里子さん)と、あかねと名乗る和泉式部(泉里香さん)が四条宮の女房達の勉強会で出会っていましたね。
和泉式部というと、恋多き、なまめかしい女性というイメージがあります。ドラマでもそのイメージ通りに描かれていたような……。
たらればさん:和泉式部といえば、艶っぽい恋の和歌をたくさん残していて、「色気を振りまいて恋の浮名をたくさん流した女」というイメージですが、個人的には「実際の和泉式部は、恋愛のことばかり考えていたわけではなかった」と思うんですよね。
水野:そうなんですか。
たらればさん:和泉式部の歌って、感覚的でもあるんですが、論理的でもあります。言葉の使い方がとても巧みで多彩。作品数も多くて、これを成立させるには大変な勉強量が必要です。
だから実は「創作」に対して真面目で一途、トライアンドエラーを繰り返した人じゃないかなと思うんです。
ふわふわして相手の男のことばかり考えていたら、これほど見事な作品を数多く作る時間や技術は得られないと思うんですよね。
水野:それはイメージと違いました。パッと考えずに歌が口をついて出てしまう人なのかと…。
たらればさん:実体験が華やかすぎて波乱万丈すぎるのですが、そのいっぽうで、歌の可能性を追求し、ひたむきに努力した人だったのではないかと思います。
『源氏物語』には和泉式部の和歌からの影響も指摘されているので、『光る君へ』の作中でもっとじゃんじゃんまひろと交流してほしいです。ふたりでいろんな話をして、もっと影響し合ってほしい。
水野:たとえば、第30回に出てきた和泉式部の和歌「声聞けば 暑さぞまさる蝉の羽の薄き衣は身にきたれども」(和泉式部集)は、どんなところにうまさがあるのでしょうか?
たらればさん:「蝉の鳴き声って、じっくり聴いていると余計に暑くなるよねえ。(蝉の羽のように)薄着していても暑いものは暑いしさ」といった意味でしょうか。
これは蝉に擬人法が使われていて、素朴に見えてちゃんと読めば奥深さがある、こういう細かい技巧も持ち味なんです。
情熱的で色っぽい歌もたくさん詠んでいるんですが、古今和歌集の引き歌(古い歌の一部や全体を自分の作品に取り入れたり引用したりすること)を使ったりもしている。
紫式部は、『紫式部日記』に和泉式部を「素行が悪い」「感性の人だ」と書いているんですが、感性だけでなく勉強家で努力家だったのでは、というのが私の意見です。
水野:なるほど。
たらればさん:そうじゃないと、勅撰和歌集に245首入首というすさまじい数の歌を残すことはできないとは思いますし。
水野:たしかに1首選ばれただけでもすごいのに、その数を聞くと、そう感じてきますね。
ドラマ「光る君へ」では、自由に感情のままに詠んでいるだけ、というふうに描かれていますよね。実際は相当勉強しないといけないだろう、ってことですね。
たらればさん:そうでないとあの頃の超上級貴族と恋の駆け引きなんてできないですよね。親王が二人も和泉式部に夢中になっているんですから。
ただ紫式部は「まあ本気を出せば私のほうがうまいけどね」ぐらいに思っていたかもしれないですけど(笑)。
水野:第33回では、彰子さまのもとへ出仕したまひろが、(父の藤原為時が式部丞<しょう>だったという理由で)「藤式部(とうしきぶ)と名乗るといい」と名づけられましたね。
リスナーさんからは女性の「呼び名」についても質問があり、過去には「藤原為時の娘のまひろです」と名乗ったときもありましたよね。
たらればさん:紫式部も清少納言もそうですが、当時の女房たちの本来の名前がなんだったか、身近な相手、たとえば親兄弟や夫から普段どう呼ばれていたかは、さまざまな研究の積み重ねがあります。
分かっている人もいれば分からない人もいる。紫式部は「香子」、清少納言は「諾子」という説がありますが、それもはっきりした史料が残っているわけではありません。
水野:リスナーさんからは「紫式部」はペンネームみたいなものなんですか? という質問がありました。
たらればさん:「式部」というのは女房名です。父や夫が「式部の丞」で働いている女房につけられています。
たとえば和泉式部も、お父さんが式部省で働いており、夫が和泉守だったから、職場ではそういうふうに呼ばれていたようです。判別できればいいので、そういうあだ名で呼ばれていたのだろうといわれています。
水野:清少納言も「清原」の名字からとって、定子さまが「清少納言」と名づけたってことでしたよね。
たらればさん:『枕草子』によると、定子さまは「少納言」と呼びかけています。
ただ、定子クラスだと女房は20~30人いたはずなので、その場に別の少納言関係者がいたときには「清少納言」と呼ばれていたかもしれません。
これと似た話で、藤式部も普段は「式部」と呼ばれていて、別の式部関係者が居たら(たとえば和泉式部が出仕してきたら)「藤式部」や「紫式部」と呼ばれたのだろうなと思います。
水野:じゃあ「藤式部」は、いつかなにかのきっかけで「紫式部」と呼ばれるようになる……ってことですよね。
たらればさん:はい。『源氏物語』が宮中で話題になって、その登場人物の紫の上が人々に知られるようになってからのことです。
寛弘五年(西暦1008年)十一月一日、酔っ払った藤原公任が紫式部に対して「ここらへんに若紫はいませんか」(「このわたりに若紫やさぶらふ」)と呼びかける――。これが記録に残る初めての「紫式部」の記録です。
『紫式部日記』によると、公任に軽口をたたかれた紫式部は「光源氏がいねえんだから紫の上がいるわけねえだろ」と思った、と書いています(笑)。
たらればさん:このシーンもきっとドラマで描かれるはずですよね。
水野:どんな風に描かれるか、楽しみですね。最新話(第33回「式部誕生」)は寛弘二年(1005年)ですから、案外もうすぐです。
ドラマの序盤(第7回)で公任から「地味でつまらぬ女」と「雨夜の品定め」をされたまひろが、33回では部屋を訪ねてきた公任と斉信に「わたしのような地味でつまらぬ女は、己の才を頼みとするしかございませぬ」と意趣返しするシーンもありましたし(笑)。
たらればさん:これからどのぐらい『紫式部日記』や『源氏物語』のシーンが盛り込まれていくのか、楽しみです。
特に、『紫式部日記』で紫式部が清少納言のひどい悪口を書いていたことを、どんなふうに描くのかなぁと非常に楽しみにしています(笑)。