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連載

#25 イーハトーブの空を見上げて

三つの大津波を生き抜いて…102歳の歌人が「一番伝えたいこと」

昭和三陸津波・チリ地震津波・東日本大震災 岩手県の中村ときさん

3度の津波を生き抜いた中村ときさん=2022年5月取材
3度の津波を生き抜いた中村ときさん=2022年5月取材
「イーハトヴは一つの地名である」「ドリームランドとしての日本岩手県である」。詩人・宮沢賢治が愛し、独自の信仰や北方文化、民俗芸能が根強く残る岩手の日常を、朝日新聞の三浦英之記者が描きます。
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イーハトーブの空を見上げて

50歳のときに詠み始めた短歌

岩手県山田町の船越半島。山の中腹にある老人施設で、102歳(取材当時)の歌人・中村ときさんは、眼下に広がる港を眺めていた。

「良い天気ね。海がきれいに見える」

二つの眼に映るのは、真っ青な初夏の空と、すべてを奪い取った海だ。

大槌町で生まれ、網元の夫と結婚して山田町に移り住んだ。

1933年の昭和三陸津波と1960年のチリ地震津波、そして、2011年の東日本大震災。三つの大津波を生き抜いてきた。

「津波のお話をさせたらね、私は誰にも負けないと思いますよ」

車いすを押す介護職員の方を向き、いたずらっぽく語りかける。

「この目で3度も津波を見た人なんて、そうはいないでしょう?」

歌を詠み始めたのは50歳のときだ。

傾倒していた歌人の佐藤佐太郎が設立した短歌結社「歩道」に入った。

少女時代から与謝野晶子や石川啄木に憧れ、短歌が大好きだったが、漁業を営む実家は忙しく、それまで時間を持てなかった。

1984年、最初の歌集「海の音」で岩手県芸術選奨を受賞。当初は暮らしや自然を詠んだ歌が多かった。

それが震災後、自らの被災経験をつづったものへと変化していく。

〈巨大津波火事と地震に怯(おび)えつつ寒き一夜の明くるをただ待つ〉
〈逃げよ逃げよと只管(ひたすら)に登りたり津波来しとふ声に押されて〉

震災で自宅を失い、姉とおいを亡くした。

悲しみに暮れるなか、涙あふれる朝や眠れない夜に、抑えきれない感情をチラシなどに書き、ノートにまとめた。

そして2019年2月、震災をテーマに活動する福島県浪江町出身の歌人、三原由起子の誘いを受けて、3冊目となる歌集「大震災・前後」(いりの舎)を刊行した。

〈三度なる津波に遭ひて生きしわれ開かれし地に老の日積まん〉

「3度の津波を覚えていますか?」と尋ねると、中村さんは「大丈夫、はっきりと覚えているわ」と言った。

恐ろしかった海の波音 1933年昭和三陸津波

最初に経験した津波は、1933年に起きた昭和三陸津波だった。

3月3日未明、強い揺れに続いて大津波が押し寄せ、三陸海岸一帯で約3千人の犠牲者が出た。

当時13歳。大槌町で水産加工業を営む両親と兄、3人の姉妹と暮らしていた。

大地震の直後、両親と兄は家に残り、姉妹4人は高台に向かった。体が大きかった中村さんは、6歳の妹を背負って逃げた。

恐怖と寒さに震えながらたき火にあたっていると、町は津波に襲われたらしく、ちょうちんの明かりが水面に揺れ、人の名前を呼ぶ声が聞こえた。

夜が明けて戻ると、家は道の真ん中まで流されており、押し入れは上段まで水につかっていた。

生きていた飼い犬が、泥だらけになって飛びついてきた。

その40年近く前に明治三陸津波を経験した大槌町では、「大地震が起きたら、津波が来るから必ず高台に逃げろ」と教えられていた。

中村さんは母親から「就寝時には布団の近くに着物をたたんでおき、逃げるときは長靴を履きなさい」「家が火事にならぬよう、囲炉裏の炭火には鉢をかぶせるように」と厳しくしつけられていた。

「だから、私はしっかりと逃げることができたのよ」

4月、地元の女学校に入学すると、鎮魂と復興を願って詠まれた短歌を習った。

〈三度なる津波に遭ひて生きしわれ開かれし地に老の日積まん大津浪くくりて めげぬ雄心持て いざ追い進み 参い上らまし〉

余震が毎日のように続いた。津波で壊滅した街から響いてくる海の波音が、恐ろしかった。

顔を出した黒い海底 1960年チリ地震津波

次に襲われたのは、1960年のチリ地震津波だった。

5月23日、チリ南部でマグニチュード9.5の超巨大地震が発生。

津波は太平洋を横断し、翌日に日本各地の海岸を襲った。

三陸沿岸を中心に死者・行方不明者は140人以上。大船渡市では最も多い53人が亡くなった。

当時、中村さんは網元の夫と結婚し、山田町の船越半島に住んでいた。

津波の当日はちょうどワカメ漁の解禁日で、浜では多くの人が出漁の準備をしていた。

地震の揺れは感じなかったが、「海が変だぞ」という声を聞き、中村さんも浜に向かった。

護岸には多くの人が集まり、沖を見つめていた。

次第に潮が引きはじめ、係留している船が傾くと、黒い海底が顔を出した。

潮が湾に浮かぶ弁天島あたりまで引いたとき、人々が「津波が来るぞ」と叫んで逃げ始めた。

中村さんも近所の主婦に声をかけながら駆け出すと、脇道から津波が迫ってきた。

高台に続く坂道を、息を切らして登る途中、津波が船や浜小屋をさらっていくのが見えた。

「低地にいたら、津波に追いつかれて、私も流されていたかもしれないわ」

自宅のあった田の浜では、津波がこの27年前に起きた昭和三陸津波の後に造成された高台の下で止まっていた。

見に行くと、護岸近くの倉庫が津波に押し破られ、漁具などを失ったが、自宅は床下浸水で済み、大きな被害はなかった。

夜空を焦がす山火事の炎 2011年東日本大震災

そして、2011年3月11日。

東北沿岸部を襲った東日本大震災は、それまでに2度の大津波を経験していた中村さんにとっても、想像を絶する大きさだった。

午後2時46分、岩手県山田町にある自宅近くの郵便局で貯金をおろし、短歌結社に歌稿を送って帰宅したところ、激しい揺れに見舞われた。

津波が来るぞ、と直感し、日ごろから手元に置いているリュックにお金と通帳、補聴器の電池、ラジオを詰め込んで、同居していた孫の車で自宅近くの高台に向かった。

高台には古い家が2軒あり、長く空き家にしていたが、いざという時に備えて壊さずに電気も引いたままにしていた。

町中にサイレンが鳴り響き、「大津波が来るぞ」「逃げろ」と叫ぶ声がして、住民が高台からさらに高い山の方へと逃げ始めた。

足の不自由な中村さんは杖をつきながら、転ばぬように畑の道を一歩一歩登った。

途中からは知人がおぶってくれた。

その後、寒さをしのぐため、山道に止まっていた幼稚園のバスに乗せてもらった。

満員の車内には全身ずぶぬれの人もいた。

バスの中で震えていると、山の木々の間から赤い炎が見えた。

どこかで山火災が発生しているらしかった。

夜になると、バスを出て高台の家に戻った。

強い余震が来るたびに、家が潰れるのではないかと不安になって、外に飛び出した。

山火事の炎が夜空を焦がし、時折、「ドーン」という、プロパンガスのボンベが爆発したような音が響いた。

古家で2晩を過ごしたあと、ヘリコプターで避難するため、軽トラックの荷台に乗った。

山火事の炎はまだ燃えており、近くを通ると熱気を感じた。直後に歌を詠んだ。

〈わが思考持たざるままに導かれヘリに乗らんと運ばれてゆく〉

ヘリコプターに乗って避難所になっている山田高校に到着すると、宮古市の学校に勤務する孫娘が駆け寄ってきて、互いの無事を喜んだ。

避難所は満員だった。食事は朝夕の2回。誰かが差し入れを持ってくると、みんなで分け合って食べた。

自宅が流されたのに、活動を続ける保健師さんがいた。

母親を亡くした女児がよちよちと歩いているのを見て、胸を痛めながら書いた。

〈避難所に母失ひし女児のをりよちよち歩きを見つつかなしむ〉

震災5日目。釜石市に住む別の孫夫婦が会いに来てくれた。

車で釜石市に向かう途中、生まれ故郷の大槌町を抜けた。

記憶にある建物がすべて津波で流されていた。

町役場では、定年まであと半月に迫っていたおいが、行方不明になっていた。

初めてわが家を見たとき、車の中から声を上げて泣いた。

1階の壁には大きな穴が開き、向こう側のがれきが見える。

2階の割れたガラス窓に破れたカーテンが揺れていた。

〈生前に分たんとせしわが着物巨大津波に一枚もなし〉

流されずに残った服を拾い上げて水を絞ると、手が痛いほど冷たかった。

私が一番伝えたいことは…

あの日から10年以上。

中村さんが詠み続けている短歌について、短歌結社「歩道」の編集人・秋葉四郎さんは「大震災の悲しみ、苦渋、涙、周囲へのいたわりや感謝がつまっている」と評する。

取材の最後、中村さんは老人施設の車の助手席に乗って、思い出の場所を案内してくれた。

かつて自宅があった田の浜は、目の前に巨大な防潮堤が立ちはだかり、海が見えなくなっていた。

「私のふるさとは失われてしまった」と中村さんは残念そうにつぶやいた。

「でも、私の短歌は残る。私にとってはそれで十分」

別れ際、車いすに腰掛けてほほえみながら、手を振った。

「忘れないでね。大地震が起きたら、必ず津波が来る。そうなったらすぐ高い所に逃げるのよ。物は取りに帰らない。命より大事なものはないわ。それが私の一番伝えたいこと」

(2022年5月取材。記事の内容は中村さんの証言や著作「大震災・前後」をもとにしています)

三浦英之:2000年に朝日新聞に入社後、宮城・南三陸駐在や福島・南相馬支局員として東日本大震災の取材を続ける。
書籍『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で開高健ノンフィクション賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で小学館ノンフィクション大賞、『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』で山本美香記念国際ジャーナリスト賞と新潮ドキュメント賞を受賞。
withnewsの連載「帰れない村(https://withnews.jp/articles/series/90/1)」 では2021 LINEジャーナリズム賞を受賞した
 

「イーハトヴは一つの地名である」「ドリームランドとしての日本岩手県である」。詩人・宮沢賢治が愛し、独自の信仰や北方文化、民俗芸能が根強く残る岩手の日常を、朝日新聞の三浦英之記者が描きます。

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