鹿児島・奄美大島で黒糖焼酎をつくる1927年創業の老舗・西平酒造。今の社長、西平せれなさん(36)はミュージシャンでもある。関東の音楽大学で学び、20代前半はライブ活動に夢中。父の病気を機に2014年、島に戻って家業を継ぎ、17年に杜氏に、21年には4代目社長に就任した。Uターンから10年目。西平さんは、奄美は課題山積の地方のお手本になれると言う。ただ、そのためには乗り換えなければいけない壁もあって……。地方で頑張る西平さんの本音を聞いた。(朝日新聞デジタル企画報道部記者・吉田貴文)
――東京から奄美に戻って家業の酒造会社を継いで以来、新しい取り組みに挑戦し続けているとか。新たな方法による焼酎醸造を試していると聞いています。
はい。音楽を聴かせて黒糖焼酎を熟成させるソニック・エイジング(音響熟成)を昨年10月から始めました。音波が熟成に影響を与えると言われているんですね。聴かせている音楽は、ロック、レゲエ、ラテン、ハウス、ヒップホップ、奄美の島唄の6種類。450リットル(四合瓶600本)の樽にスピーカーを設置し、ジャンルによって熟成がどう変わるか実験しつつ、商品化を目指しています。
音楽を聴かせて酒類をつくる例はこれまでもあるようですが、ジャンルの異なる音楽を聴かせるのはあまり聞いたことがない。ミュージシャンならではの挑戦です。
――ミュージシャン?
先代の社長だった父は元ロックミュージシャン、母はピアノ教師で、私も音楽を勉強し、高校卒業後に上京して東京の音楽大学に入りました。20代前半はライブをしたり、ミュージカルに出たりの毎日で、島に戻る気はまったくありませんでした。
――でも、お父さんが2014年に病に倒れて……。
戻ることにしましたが、最初はほんとうに大変でした。会社経営はかなり苦しく、この先どうなるんだろうという状態。一度も就職したことのない一介のミュージシャンの私に、いったい何ができるの、と悩みました。
結局、経験のなさを逆手にとって今までにないことをやるしかないと覚悟を決め、焼酎づくりや日常業務を覚える傍ら、とにかく新しいことに挑戦し続けました。
――ソニック・エイジングもそのひとつ?
そうです。日本の酒造会社で働いた経験もあるオーストラリア人のジョン・マノリト・カントゥーさんに、西平酒造のセールスポイントは音楽だと言われ、彼の提案で始めました。確かに社長は二代続けてミュージシャン、社員もミュージシャンが多いですからね。
――ジョンさんがこの企画のキーマンだと。
ジョンさんは当時住んでいた神奈川県茅ケ崎で黒糖焼酎を初めて飲み、“一目惚れ”したそうです。産地の奄美も気に入り、3年前に移住してきました。黒糖焼酎を研究して本を書くために、島々の酒蔵を取材し、今や黒糖焼酎にもっとも詳しい人。「黒糖焼酎はもっと知られていい」といつも嘆いています。この人を失うと奄美の損失だと思い、西平酒造の社員になってもらいました。
――黒糖焼酎はPRが足りないのでしょうか。
やってはいますが、もっとできると思います。沖縄でもないし、本土の鹿児島県でもない、その間にある奄美群島には、ここにしかないものがある。戦後、米軍軍政下から本土に復帰した際に生まれた黒糖焼酎もその一つで、PRの仕方次第でもっと人気がでると思います。ジョンさんの嘆きももっともです。
――奄美に戻って10年目。焼酎づくりの日々を振り返ってどうですか?
まさに怒濤の9年。何か新しいことをしないといけないと毎日、必死でした。復帰した父とも喧嘩をしながら、新商品もいろいろ出した。これまでの焼酎は少しからく感じたので、私も飲みたくなる風味に変えました。そのほうが若い人たちも飲みやすいと思ったからです。売れない商品はデザインを変え、SNS発信も積極的にしました。
――創業90年以上の老舗の酒蔵。しかも、酒造りの世界は男社会とも聞きます。プレッシャーもあったのでは?
西平の味を守らないといけないという重圧はありました。ただ、社員にミュージシャンが増えるうちに、今のメンバーでその年の最高のアルバムをつくるという気持ちで焼酎をつくるようになってから、楽しくなってきました。
昨年は奄美が本土に復帰して70年で、メディアでも奄美の歴史がいろいろ特集されました。見ていると、昔の人ってやりたい放題。儲かるから、自分たちが楽しいからやってみた結果が今につながっている。歯を食いしばって伝統を守ろうというのはなんか違うな、と感じました。
日本人って真面目だと思うんです。私も気を抜くと真面目になる。それをやめて、緊張をどんどんほどいて、やりたいことを自由にする会社にしたいですね。
――女性のトップとして思うところはありますか。
焼酎業界も男性社会。会議は年上の男性ばかりで女性は私一人という状況はしょっちゅうです。ある頃まで、「自分は女で経験も浅いから、発言できない」と思っていました。
でも、ある頃から、女性で若い私にしか見えてないことがあるはずと気づいた。今では、何か気づくことがあったら発言するようにしています。多様性が求められる時代だからこそ、女性がいかに堂々と言い、物事を進めるかが、すごく大事。
――東京に戻りたいとは思いませんか。
正直、奄美が窮屈になる時もあります。そういう時は東京に行く。東京には見たいものや食べたいものがあふれていて、出会いもある。刺激をもらうにはすごくいい。時々行って拠点は奄美という今の生活は、バランスが取れていいです。
かつて私は、東京に憧れ、夢を叶えるために上京しましたが、今はこう思うんです。東京は夢を探すにはいい場所。でも、何かを見つけたら、地方に戻って叶えるほうが、きっと可能性がある。東京はなんでもあるし、いろんな人がいる飽和状態。地方に帰ってくると、これもないし、あれもない。でも、逆に何かができる余地がある。
先ほど、奄美にはここにしかないものがある、と言いました。それを生かす取り組み、例えば黒糖焼酎を守り育てる施策を成功させれば、日本の他の地方のお手本になれるのではと思っています。日本の地方が抱える課題は、高齢化にせよ、過疎化にせよ、共通です。
克服しようと各地で「地域おこし」が行われていますが、課題はそれぞれ。奄美もこの島だからこそできる、この規模のコミュニティーだからできる、そういう「地域おこし」があるはずです。
同年代や若い人たちと飲みにいくと、男も女も、奄美を、黒糖焼酎を守るためにこうしたいという話を本気で、時に喧嘩しながらでもする。結構、熱いんですよ。
――奄美の政治や行政はそうした熱気を受け止めていますか。
現状にあぐらをかいている面はあるかもしれない。人口減や高齢化は他の地方同様、深刻ですが、出生率は全国平均より高く、世界遺産登録の影響もあって観光客も増えている。最悪ではないので、わざわざ変えなくてもいいという空気を感じます。でも、そのうち手遅れになります。私は奄美市の向こう10年の計画を立てるプロジェクトに加わっているのですが、それとは別に考えていることがあります。
昨年10月に奄美市議会の選挙があったのですが、22人の議員中、女性は2人だけ、20代、30代がそれぞれ1人というのは、多様性を求める時代にふさわしいとは思えない。いろんな分野で頑張ってる友人と話してるのは、どこかのタイミングでやる気のある人たちで市議選に出ようということ。
私が出るか出ないかはともかく、こう言い続けていたら、若者が選挙にでる空気が生まれる。政治の場が若返ったり、より多くの世代が政治に興味を持ったりしたら、社会も変わる。そう思って熱い人たちにお薦めしているのですが……。
――ところで、ソニック・エイジングでつくった焼酎はいつ飲めますか?
現在販売しているうちの会社の黒糖焼酎の貯蔵期間は普通1年。ソニック・エイジングは初めての試みなので、1年で音楽ジャンルごとに差がでたら出荷するし、それほどでなければ3年で出荷します。3年寝かした焼酎なので古酒になりますね。
ベースがきいているロック、レゲエを聴かせた樽の焼酎はすでに茶色く色づき、まろやかな味がします。島唄、ラテン、ハウス、ヒップホップは色づきが薄く、味もまだ若い。音や振動が影響しているようですが、どう熟成していくか、奄美のこれからとあわせて楽しみです。