連載
#15 コウエツさんのことばなし
元は危機管理の用語だった「権力勾配」 意外な業界から広がった理由
近ごろのニュースで、「権力勾配」という言葉が目にとまりました。とくに社会問題を取り上げた記事によく登場する印象です。「権力」も「勾配」も、それぞれの意味は分かりますが、二つがくっついてできた「権力勾配」って、なに? 調べてみると、理解のヒントは意外な「業界」にありました。(朝日新聞校閲センター・井上顕二郎)
最近、「権力勾配」が目についた例は、ハラスメントや差別に関する朝日新聞の記事でした。
<連載「帝国の闇 ジャニーズ性加害問題5」(9月16日付朝刊)>で、芸能分野の法務に詳しい弁護士の高木啓成さんが、芸能界でタレントへのハラスメントが起きる背景について「事務所の移籍が困難な特殊な世界であることも、大きな権力勾配を生んでいる」と語っています。
また演劇界では、日本劇作家協会会長の瀬戸山美咲さんがインタビュー記事で「男性の演出家と話をすると、権力勾配がある中で行ったハラスメント行為を、対等な恋愛だと捉えている人が多いと感じます」と指摘していました。(4月13日付夕刊「ハラスメント 性暴力 演劇界を変えるには」)
さらに年功序列をテーマにした記事では、文筆家の岡田育さんが「年下の人を無理にうなずかせるような態度もいけません。それもまた、権力勾配によるハラスメントですから」と述べています。(9月5日付朝刊オピニオン面「耕論 年上? 年下?」)
自身をトランスジェンダー女性と認識する、活動家の奥田圭さんは、マイノリティー当事者がプライベートな質問をされ、説明を求められる状況そのものに「(マジョリティーとの)権力の勾配があります」と指摘しています。(7月15日付朝刊オピニオン面「耕論 『素朴な疑問』が刺さる」)
このように、組織の上下関係や、社会のマジョリティー・マイノリティーのあいだに存在する「力の差の度合い」を言い表すものとして、「権力勾配」が使われている状況があると言えそうです。
「権力」とは「他人を強制し、服従させる力」。国家や政治を語るときに、つきものの言葉です。
そして「勾配」とは「水平面に対する傾きの度合い」。こちらは道路や鉄道、土木や建築といった分野でよく使われる用語と言えます。
では、それら二つを組み合わせた「権力勾配」の定義とは――。
そう思っておもな辞書を調べてみたのですが、書籍版・ウェブ版ともに項目は見当たりませんでした。
ネット検索してみると、権力勾配は英語で「Power Gradient」といい、また似た言葉として「権威勾配」(Authority Gradient)というものがあると分かりました。
そういえばこの「権威勾配」、筆者は以前、ある雑誌で出合っていたことを思い出しました。
日本航空(JAL)の機内誌「SKYWARD(スカイワード)」に「キャプテンの航空教室」というコラムがあります。その、2019年3月号掲載のタイトルは「適切な勾配」。
バックナンバーの入手は難しいのですが、34編を一冊にまとめた「JAL機長たちが教えるパイロット雑学 キャプテンの仕事にかける想い」(KADOKAWA)に、そのコラムが掲載されていました。
絶えず判断が求められる航空機のコックピット内で最終決断を下す「機長」と、判断材料となる有力な情報を提供し、ともに討議する「副操縦士」のあいだの上下関係の度合いを「権威勾配」と呼ぶ、と解説されています。
機長が威張りすぎる、つまり「権威勾配があまりに急な場合」はチームが機能しづらくなるし、逆に勾配が平坦(へいたん)すぎると緊張感が薄れ、職責があいまいになりエラーを誘発するおそれがある。機長は状況に応じて適切な権威勾配を維持しなければならない――というのです。
パイロットに求められるコミュニケーション能力などの「ノンテクニカルスキル」として、危機管理上とても重要視されている概念なのだそうです。
調べていくと、「権威勾配」という考え方が注目されたきっかけは、1977年にスペイン領テネリフェ島の空港で起こった航空機どうしの衝突事故にある、とわかりました。
583人が犠牲になった大惨事は、機長の権威勾配が急すぎたため、機関士が機長の間違いに気づいていながらも、強く主張できなかったことが一因とされました。
このリスクマネジメントの教訓から、米航空宇宙局(NASA)が主導し、ヒューマンエラー防止のための訓練プログラム、CRM(Crew Resource Management)が開発され、各航空会社が導入。このなかで権威勾配の考え方も、訓練の重要な要素になっています。
もともと航空業界のリスクマネジメント用語だった「権威勾配」。さらに専門家の記述を探してみました。
宇宙航空研究開発機構(JAXA)で宇宙飛行士訓練に携わる山口孝夫さん(心理学博士)は、著書「宇宙飛行士の採用基準 例えばリーダーシップは『測れる』のか」(角川新書)で、こう定義しています。
日本経済新聞の「『権威の傾き』の急坂で転ぶ日本企業」(2018年8月30日電子版)でも、権威の急な勾配が、企業の不正をまねく危険性を指摘しています。
それは医療の現場でも同様で、医師に対してスタッフがはっきり意見を言うアサーション(assertion)を実行することによって、勾配を克服するトレーニングを導入するところが多い、と報じていました。
組織の問題といえば、最近メディアに大きく取り上げられた中古車販売大手・ビッグモーターの保険金不正請求が思い浮かびます。第三者による特別調査委員会の報告書は、会社側が現場に押しつけた過大な利益達成ノルマが、不正を拡大させたと指摘しています。
スポーツ界、学校、地域の組織などなど――。
権威の急な勾配、すなわち明白な上下関係が生じる環境ならばどこでも、さまざまなハラスメントや不正が起こりやすいことは想像に難くありません。
「権威」勾配については分かりましたが、「権力」勾配のほうはいったい、どこから生まれたのでしょう。
成蹊大学教授の伊藤昌亮さん(メディア論)の著書「炎上社会を考える 自粛警察からキャンセルカルチャーまで」(中公新書ラクレ)を開くと、次のように紹介されていました。
伊藤さんに話を聞いてみました。
民族、ジェンダーなどの観点で反差別運動が高まった2010年以降、運動家らが差別構造を批判する言葉として、たくさんのジャーゴン(jargon、業界用語)が現れ、そのなかの一つに「権力勾配」があった、といいます。
「同様の意味で『権力の非対称性』という表現もありますが、それよりも視覚的で、とても分かりやすい重宝な言葉。ただし、構造を単純化し過ぎています。権力構造は本来複雑で『でこぼこ』なものです」
伊藤さんは著書の中で、反差別と反・反差別、強者と弱者の位置づけが複雑に入り組む構造を解き明かしています。
ただし自身の分野では、「権力勾配」という言葉を学術用語としては使っていない、ということも強調していました。
社会運動の現場で交渉の相手先に突きつけるキャッチーな言葉として登場し、そこから世間一般に広がりを見せつつある「権力勾配」。
人間関係にひそむ問題点を「見える化」する便利な言葉である半面、あらゆる問題をワンパターンでとらえず、実態に応じて原因をじっくり見定めていく慎重な姿勢も必要になりそうです。
家庭や学校、オフィスなど、さまざまな場面で、ふと気がつけば上下関係や力関係は生じてしまいがちです。
まずは身のまわりの人づきあいの「傾きの度合い」を、見つめ直してみませんか。
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