連載
#13 コウエツさんのことばなし
紙の辞書に載ってない「凡事徹底」いつ広まった?野球のモットーにも
工事現場でも見かけた四字熟語 誰の発案?
「凡事徹底(ぼんじてってい)」という言葉を聞いたことがありますか? 「平凡な事、当たり前のことを徹底してやろう」という意味で、座右の銘や信条に広く使われています。一方で知らなかったという人もいるかもしれません。それもそのはず、ほとんどの辞書に未収録なのです。由来は? 広まったのはいつ? 追っていくうちに、ある提唱者の存在が浮かび上がりました。(朝日新聞校閲センター・井上顕二郎)
凡事徹底 当たり前のことを一生懸命行う――。
東京都内のマンション改装工事現場で、こんなスローガンを目にしました。
掲示していたのは三和建装(本社・西東京市)。取材すると、同社は10年前に「凡事徹底」を社訓・経営理念にしたそうです。
社長が経営セミナーで聞き、心に響いたのがきっかけ。仕事の基本として隅々まで浸透させようとヘルメットに貼るステッカーも配っています。
「凡事徹底」という言葉はビジネスに限らず、スポーツや教育分野にも広がっています。
朝日新聞には1990年代から記事に出てきます。
代表的なのは野球。故・野村克也さんが阪神の監督時代に「凡事徹底。当たり前のことを当たり前にやるのがプロ」とコメントしていました(1999年6月2日付大阪夕刊など)。
アレックス・ラミレスさんはDeNA監督の時にスローガンにしていました。
また夏の高校野球シーズンを中心に、この言葉をモットーに掲げるチームが各地の地域面で紹介されています。
インターネットで検索すると、学校で標語や訓示にしばしば使われているのが見つかります。
ところが意外なことに、この四字熟語は本の辞書には載っていないのです。
オンラインでは「実用日本語表現辞典」に掲載されています。これは、ネットやメディアなどで日常使われる言葉を中心に収集する辞書サイトで、「2013年更新」となっています。
凡事の2字についても、本の辞書で掲載しているのは、長い間、大型辞書「日本国語大辞典(日国)」(小学館)くらいでした。
1970年代刊行の初版からあり、16世紀の古典の用例が記されています。
それ以外は、ようやく2021年、8年ぶり改訂の「三省堂国語辞典」第八版に収録されました。用例に凡事徹底が挙げられています。
デジタル版は少し早く、三省堂が2013年以降、電子辞書やウェブ版の「大辞林」に掲載。小学館は「デジタル大辞泉」に2021年から掲載し、日国とともにオンライン提供しています。
しかし大辞林、大辞泉とも本の掲載には至っていません。
さらに追っていくうちに、高校野球での出来事が目に留まりました。
2013年の夏の甲子園。群馬の前橋育英が初出場で旋風を巻き起こし、優勝した時のことです。
荒井直樹監督の指導法が注目され、野球部のモットーは「凡事徹底」でした。
荒井さんはサブタイトルに「凡事徹底」がある野球指導の本を翌年に出版。その中で「誰にでもできることを、誰にでもできないくらい、徹底してやる」ことの大切さを強調しています。
このころ、高校サッカーで注目を集めていた学校の監督も、この言葉を指導理念にしていました。
熊本県立大津高の平岡和徳監督(現・総監督)。人口3万5000人の町の公立高を全国選手権の常連校に育て上げ、その指導法を紹介した本が2017年に出版されました。
メインタイトルは「凡事徹底」。大津は2021年度の全国選手権で準優勝に輝きました。
前橋育英の荒井監督に話を聞いてみました。
雑誌で目にしたのがこの言葉との出会い。指導者として歩み始めた1990年代から座右の銘にして、「現在も一貫して球児に浸透するように努めている」とのことです。
後に、カー用品販売大手・イエローハットの創業者、鍵山秀三郎(かぎやま・ひでさぶろう)さんが広めたと知ったそう。
実はこの2人、このことがきっかけで2014年に雑誌の企画で対談をしました。
鍵山さんはゼロから会社をつくり上げた立志伝中の人。1990年代に「凡事徹底」をタイトルにした著書があり、経営に生きる座右の銘として紹介しています。
実践の一つとして日ごろから清掃活動を続けていました。
それが発展し、トイレ磨きや街頭清掃を推奨するNPO法人「日本を美しくする会」で受け継がれています。
なぜ鍵山さんは「凡事徹底」を使うようになったのでしょうか。
現在療養中で本人に取材ができず、真相はわかりませんが、長男でイエローハット元社長の鍵山幸一郎さんに聞くと「(秀三郎さんが)たぶん経験から編み出した造語」と言います。
NPO顧問の田中義人さんは「特に90年代以降に鍵山さんが出版や講演などを通して盛んに提唱し、周囲に影響を与えたのは確かだ」と話していました。
朝日新聞のほかにも全国紙の記事を検索すると、90年代に凡事徹底の言葉が現れ始めています。
朝日新聞で最初に登場したのは、1993年9月30日付の東京夕刊です。
「便器も社員も磨けば光る 全国から希望相次ぐ トイレ研修大繁盛の記」という見出しの記事。実は鍵山さんの清掃活動を紹介した記事でした。
こうしたことから、この30年の間に鍵山さんの提唱から広まった可能性は高いようです。
この言葉の魅力は、分かりやすさ、覚えやすさ、どの分野にも当てはまる普遍性でしょう。人生訓、修養の道しるべとして、これからも残っていくかもしれません。
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