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お金と仕事

「王道から外れた」元ラグビー日本代表が選んだセカンドキャリア

子どものスポーツに「お金をかける」理由

タックルを受けながら突進する小野澤さん=2002年6月16日
タックルを受けながら突進する小野澤さん=2002年6月16日

目次

大学卒業後、ラグビー選手として実業団に入った小野澤宏時さん(44)は、4年目で「少数派」のプロに転向しました。引退後も正社員として働けるメリットを手放してまで決断した理由は「先生になりたかったから」。子どものスポーツに対して、「最初の一歩」の大切さを訴える小野澤さん。自身を「王道から外れた人間」と呼ぶセカンドキャリアについて聞きました。(ライター・小野ヒデコ)

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小野澤宏時(おのざわ・ひろとき)
1978年3月、静岡県島田市生まれ。1996年静岡聖光学院高校卒業後、中央大学文学部フランス語文学文化専攻に入学。2000年にサントリーに入社し、トップリーグ所属の「サンゴリアス」にてプレー。01年に日本代表選手に選出。その後、日本代表として81の試合に出場(81キャップ)。03年に同社とプロ契約を結ぶ。12年にトップリーグ史上初の通算100トライを達成。14年4月にキヤノンイーグルスに移籍。2017年に引退後、スポーツアカデミースクール「Bring Up Athletic Society」のラグビー部門のコーチをはじめ、J1清水エスパルスのアスレティックアドバイザー、7人制ラグビークラブ「アザレア・セブン」の初代監督などとしても活動。現在は、常葉大学教育学部で教職課程の体育の実技を担当している。
 

「ボールを持ったら倒れるな」

<ラグビーに熱心ではなかった中学生時代。転機となったのは、元ラグビー日本代表選手の赴任だった>

私は静岡県島田市生まれで、中高一貫の私立静岡聖光学院に進学しました。ラグビー部に入部したのは、父がラグビー経験者だったのと、母親からの勧めがあったからです。

正直、部活動は体を動かす“余暇”的な役割で、とりわけラグビーに熱心だったわけではありません。練習も週3回ほどでした。

そんな生活が一変したのは、中学2年の時、元ラグビー日本代表の選手が教師として赴任してきたことでした。その人は、葛西祥文(かさい・よしふみ)さん。葛西さんとの出会いが、その後の私の人生を大きく変えることになります。

葛西さんの指導法は、ラグビーが上手くなるための効率的な内容ではなく、「ラグビーをもう少し続けたいかも」と思えるきっかけを多くちりばめたものでした。中でも、「ボールを持ったら倒れるな」との言葉が印象深く残っています。そのためにどうしたらいいのか、考えるようになりました。

また、「走ること」の大切さを教わり、自主練でもランニングを取り入れたことで基礎体力がつきました。チームとしても、スピードやボール保持者へのサポートの人数で、相手を上回るラグビーを目指していくことになりました。

それらの教えが原体験となり、私も将来、葛西さんのように教育の道へ進みたいと思うようになりました。

トライを決める小野澤さん=2003年1月25日、東京・国立競技場で
トライを決める小野澤さん=2003年1月25日、東京・国立競技場で

安定の道or挑戦の道

<卒業後の進路に半年悩む。ラグビーで自分がどこまで通用するか試したいとの思いが勝った>

大学でもラグビーを続けたいと思っていたものの、大学から声がかかるようなレベルではなかったため、ラグビー部のセレクションを受け大学に進学、ラグビー部に入部しました。

私が大学生だった2000年当時は、4大の大学に行って、大手企業に就職するのが「良し」とされていた時代でした。人並みに就職活動をし、大手電力会社から内定が出る寸前のところまでいった最中、実業団ラグビーチームのサントリーからも声をかけてもらいました。

ラグビーをしたいけど自分が通用するのかという不安や、引退後の人生の方が長いためラグビー選手の道を選んでいいのかなどの葛藤が続き、半年間悩みました。

最終的に、「ラグビーで自分がどこまで通用するか試したい」との思いが勝りました。そうして、実業団選手としてキャリアを積む道を選びました。

正社員として入社し、総務部にて事務機器の管理などの仕事を担当しながら競技に打ち込みました。日本代表への声がかかったのは、入社した翌年の2001年。

日本代表になったら、やろうと決めていたことがありました。それは、体育教師の教員免許を取ること。もし日本代表になっていなかったら、免許は取っていなかったと思います。自分の中の条件として、「競技の山の上に立つこと」を課していたからです。

入社4年目でプロに転向した理由

<引退後、仕事の保障はないけれど、時間の融通が効くプロのメリットを活用した>

プロ転向の決意を固めたのは、入社4年目の時。理由は、ラグビーに集中したいからではなく、教員免許を取りたいからでした。

実業団選手は、引退後も所属企業に正社員として残ることができます。そのメリットは感じていましたし、プロになる選手は各チーム2割ほどと、少数派でした。それでも、教育の道に進みたいと思い、時間の融通が効くプロの道を選びました。

中学高校の体育の免許を取るために、日本体育大学、日本大学の文理学部と通信教育学部に科目履修生として、合計で124ほどの単位を取りました。

振り返ってみて、教職を取ったことで、競技の質が落ちるなどのマイナス面は一切なかったと感じています。実業団選手の場合、働きながらプレーをします。その就業時間を、教職の履修に当てていたイメージです。

プロとしてサントリーで11年間プレーをした後、2014年にキャノンへ転籍。その後、大学の非常勤講師の職に就くこともでき、教職への道も開けてきため、2017年にトップチームでのプレーには区切りをつけました。

日本代表の試合でトライする小野澤さん=2008年5月18日
日本代表の試合でトライする小野澤さん=2008年5月18日

現役時代の経験を活かしたスクール設立

<初心者こそ、安心安全な指導が必要。教育的な価値を含むスポーツアカデミーを運営>

引退後に立ち上げたのが、中学生までの子どもを対象としたスポーツアカデミー「Bring Up Athletic Society」です。コンセプトに、集団での学びが対人スキルや集団での問題解決能力を育てること、を掲げています。

この考えの原点となったのは、現役時代の経験をはじめ、筑波大学大学院や日本体育大学大学院に進学した際に学んだ、コーチング学や学習理論です。

日本では、子どものスポーツはお金をかけないものだと思われている傾向があります。でも、最初の一歩目だからこそ、安心、安全な指導が必要だと思っています。子どもたちが自ら発見し解決できる環境を設定していくことを大切にしています。

練習内容はラグビーのルールがベースになるのですが、子ども達の習熟度により常に変化を加えていきます。制限が加わる中で学年によってはチームでの話し合いの時間にも制限をかけることがあります。

チームで行うため、自分だけルールがわかっていても、勝てません。その時間内で、ルールを理解していない子に説明したり、もしくは作戦を考えたりと、子どもたちなりに考えて行動しています。

見学している親御さんの中には、「子どもたちの動きから、『こういうことが制限されているのでは』と読み取るのが楽しい」という人もいます。よくありがちな、保護者のダメ出しが無く、親子共々楽しんでくれていると感じています。

元ラグビー日本代表の小野澤宏時さん(左)=筆者撮影
元ラグビー日本代表の小野澤宏時さん(左)=筆者撮影

「スポーツ特化型キャリアコンサルタント」を目指す

<デュアルキャリアを築くアスリートが増加。教育やキャリアコンサルのニーズを感じている>

将来の展望として、二つのことを考えています。一つは、大学教員への本格的な道を進みたいと思っていること。コロナ禍で、非対面が主となる世の中になりましたが、私は「人が集まることで生まれる価値」を考えたいと思っています。

現在、世田谷区教育委員会と「スポーツ」と「道徳」という観点から横断的学習の研究をしています。スポーツの指導法の研究をはじめ、そもそもスポーツは何のためにやるのかについて考えることは必要だと思っています。その一方で、理屈なしでスポーツをする、楽しむことも大事だと思うので、そのバランスも大切にしていきたいです。

もう一つは、生涯にわたってスポーツに携わる人を増やしていくこと。今しているスポーツアカデミーの事業を拡大し、指導者の働く環境を増やしていくだけでなく、スポーツ系人材のキャリアサポートもしていくことも検討しています。

日本のラグビー界では私たちの世代がプロという選択肢ができた最初の代になります。それまでの実業団スポーツでイメージしやすい「王道」から外れたからこそ、面白そうなことにチャレンジしていきたいです。

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