連載
76歳の父が事故ったので「ミルクスタンド」の夢をかなえることにした
父が事故った。27歳から仕事で車を乗り続け、70歳を過ぎてもハンドルを握っていた。当然、家族は心配していた。でも、40年間休まず働いてきて、取引先もある。世間では免許返納が〝いいニュース〟として報じられるが、現実はそんなに簡単なものじゃない。事故から3日後、新しい車を手に入れた父は運転を再開した。そんなこんなで、父の長年の夢に向けて親子で動き出した。「そうだ、ミルクスタンドを始めよう」。(FUKKO DESIGN 木村充慶)
「ミルクスタンド」の前に、まず父の紹介をさせてください。
父は自動販売機でジュースやお茶、牛乳などを販売する「ベンディングサービス」の会社をやっている。
会社と言っても父親一人の小さな会社。いわゆる自営業だ。
なので、飲料を運ぶ専用トラック(通称「ドリンクカー」)を運転し、自動販売機まで荷物を運んで商品を入れるまで、すべて自分でやっている。
家族はみな心配していた。特にトラックの運転ということで、何かあったら取り返しのつかないことになるのでは。一昨年池袋で高齢者が運転する事故で母子が亡くなる痛ましい事件もあった。家族の不安は余計に強くなっていた。
でも、40年間ずっと仕事をしてきた父に「危ないからやめて」とは簡単に言えなかった。トラックの運転ができなくなれば、仕事を辞めることになる。うちはそれほど裕福ではない。認知症の祖母や父や母の老後を考えると稼ぎも必要だ。
「そろそろ免許返納を……」と言いだせないまま、父は76歳になった。そして事故った。
幸い他の人を巻き込む大きな事故ではなかった。父も軽いケガですんだ。
車は修理ができないほど壊れていた。つまり廃車。
仕事は、父が一人でやってきた。代わりをしてくれる人はいない。でも、取引先はある。自販機も父のジュースを待っている。自営業は簡単には止められない。すぐに新しい車を購入。3日後、父は仕事に復帰した。
私は1週間ほど父の手伝いをしていたが、2週間もたつと、以前と同じように父は1人で仕事ができるようになった。
父はもともと牛乳屋の家に生まれた。昔は街中によくあった牛乳屋さん。牛乳配達をする仕事を始めたのは祖父だった。
父は6人兄弟の5番目として生まれ、大学卒業後、3年、サラリーマンをした後に、家業に参加した。
1970年当時、牛乳は配達かお店への卸し下ろしがほとんどだった。一部では瓶の自販機が出始めていたが、瓶は割れやすいため、なかなか広がっていなかったという。そこで、父は紙パックの牛乳を販売する自動販売機を始め、牛乳の新しい販路拡大を目指した。
当初はうまくいかなかったが、いろいろな人にアタックする中で、牛乳メーカー、自販機メーカーの中に仲間を見つけ、都内で展開していくことになった。
見覚えのある紙パックの牛乳の自販機。父は、あれの普及に携わっていたのだ。ちょっとびっくりした。
その後、独立し、自販機のビジネスを広げていった。しかし、牛乳は賞味期限が短く、販路を広げられない。いつしか、仕事はジュースの自販機販売にシフトしていった。
頭が固いと思っていた76歳の父だが、若かりし頃、そんなチャレンジをしていたとは。事故って初めて知ったファミリーヒストリーだった。
ここまで読んでいただいた人にはたいへん申し訳ないが、私は、牛乳が嫌いでした。
小学生の頃、給食で飲むぬるい牛乳のにおいが苦手で、どうしようもなかった。ごめん父。そんな私の牛乳観を一変させる体験をしたのは、それから20年が経ち30歳を越えたころだった。
きっかけは、父にすすめられて読んだ、北海道旭川市にある自然放牧の「斉藤牧場」を始めた斉藤晶さんの自伝的な本『牛が拓く牧場』(地湧社)だった。
「斉藤牧場」の斉藤さんは戦後、開拓移民として北海道・旭川に入植。通常、酪農というと平地が適していると言われるが、斉藤さんは農業には適さない山の傾斜地をあてがわれたという。
その環境を逆手にとって唯一無二の牧場をつくる。平地ではないためブルドーザーなどの機械が使えない。そこで、林や笹地に牧草の種を撒くだけ撒き、牛を自由に歩きまわらせ、自然に牧草地を作った。さらに、鉄ではなく立ち木を枯れさせ、そのまま杭にした。機械や人の力を最小限にし、植物の法則や動物の力をうまく利用したスタイルを自分で編み出していた。
自然に逆らわず、自然や動物に寄り添ったスタイル。しかもそれを自然を見ながら自力で考えた。本を読んだ私は、いてもたってもいられず斉藤牧場に向かった。
牧場は旭川から30分ほど離れたところにあった。
山奥の斜面にありながら、青々とした牧草がきれいに生い茂る。ところどころ大きな岩がむき出し、山奥にいることを感じさせる。
急斜面ながら美しいこの牧草地で、牛たちは何食わぬ顔をして草をはんでいた。牛といえばのんびりしているイメージがあったが、斉藤牧場の牛たちは生き生きとしてたくましかった。
「これが、牛乳!?これなら飲める!」
牧場を案内してもらった後、牛乳を用意していただいた。飲んだ瞬間、そのおいしさに感動した。
一般的においしい牛乳というと、濃くて甘い印象だが、「斉藤牧場」の牛乳はサラッとしていた。それでいて、風味豊か。飲んだことのない味だった。
「これが自然放牧の実力か……」
生まれた時から牛乳が近くにあり、小さい頃はご飯に牛乳をかけて食べていたという父。そんな父が特に大好きなのが自然放牧の牛乳だ。
牛乳パックに描かれる草で覆われた雄大な牧場の絵。あれは正しいようで正しくない。一般的な牛乳の多くは、牛舎と呼ばれる建物の中で一生を過ごす牛から搾られる。一方の自然放牧は、草が生い茂る自然の中で自由に育てられる。
どちらが良い悪いということはない。ただ、私は自然放牧の虜になった。牛乳嫌いだった私が。
斉藤牧場から戻った私は、父と自然放牧の牛乳を扱う「ミルクスタンド」を作る計画を話すようになった。実は自然放牧の牛乳を集めたセレクトショップを作るのが父親の長年の夢でもあったのだ。
振り返ると、自営業の父の背中を見ながらも、私は、なんの気なしに会社員になった。私は会社を継ぐという考えは全くなかった。
会社員となって仕事で全国各地に行くと、Uターンで地元に帰り、親子で頑張っている若い人たちに会うことが少なくなかった。大変なこともたくさんあると思うが、一念発起して親子で頑張っている姿がまぶしく見えた。
東京の吉祥寺に生まれ育ち、いわゆる「田舎に帰る」という感覚もない私。学生時代、夏休みに「田舎に帰ります」という同級生たちがとてもうらやましかった。
でも、ふと考えると、私にとって「吉祥寺が田舎」なのかもしれない。都会でも地元で父親と一緒にやれることもあるのかなと思いはじめていた。
「自然放牧の牛乳を集めたセレクトショップ」
昔は何の気なしに聞いていたと父の夢。その時は、商売としては厳しいと感じていた。
でも、最近では、オーガニック食材の人気もあり、食生活にこだわる人たちが増えている。環境や牛にもよいとされる「自然放牧」は、今の時代なら多くの人が受け入れてくれるのではないか。
そんな思いをぼんやり持ちはじめていた時、父が事故った。
まず資金が必要だ。それなりの額になるだろう。会社員をしながらの家業への参加。簡単に後戻りはできない。でも、ちょっとワクワクしている自分がいる。
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