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連載

#46 Busy Brain

「ADHDは個性と思わない」小島慶子さんが痛感する励ましの難しさ

「わかるよ」がはらむ無自覚な暴力性

小島慶子さん=本人提供
小島慶子さん=本人提供

目次

BusyBrain
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40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが綴る、半生の脳内実況です!
今回は、小島慶子さんがマジョリティとマイノリティ、それぞれの立場にあるときの言葉に対する感受性について綴ります。
(これは個人的な経験を主観的に綴ったもので、全てのADHDの人がこのように物事を感じているわけではありません。人それぞれ困りごとや感じ方は異なります)

なぜ私は「ADHDは個性」とは考えないのか

 ネットなどでチェックリストを見て、自分もADHDかもしれないと思ったことのある人もいるかもしれませんね。なんだか個性派の証しのような気がして、「自分も多分あれだと思う」と自己診断で周囲に話している人もいるでしょう。

 ADHDは発達障害の一つです。発達障害は先天的な脳の機能障害であると言われています。多くの人と少し異なる脳の特性があるので、確かに個性的な印象を与えるかもしれません。でも私は、「ADHDは個性」とは思いません。

 中には天才の証拠のように言う人もいますね。でも、歴史上の人物やセレブリティなど誰もが知っている特異な才能を持った人たちの中にたまたまADHD的な傾向がある人が何人かいたからといって、ADHD=天才と考えるのは短絡的です。

 見えていないだけで、自分の身の回りには、何百人もの“ADHDの凡人”が生きているのです。そして、天才と言われる人もまたADHDゆえの多くの困りごとを抱えていたのかもしれない、と想像してみることが必要でしょう。

 なぜ私は「ADHDは個性」とは考えないのか。それは、今の日本のように、周囲の理解や支援体制が十分ではなく、ADHDなどの脳の特性が生きる上での障害になりやすい社会では、その特性を「単なる個性」として扱うと、適切な支援に繋(つな)がりにくくなってしまうからです。

 いつか、そうした持ち味が生きる上での困難に繋がらないような世の中になったら、「ADHDは個性の一つ」と言えるようになるでしょう。でも残念ながら、まだそうはなっていません。障害がある人への差別があるため、親が我が子の障害を受け入れられず、その結果、親子ともどもつらくなってしまうこともあるのです。

 「もしかしたら発達障害の当事者かも?」と思っても、特に日常生活で困ることがないなら、そうかもしれないけど違うかもしれないな、という程度に考えておけばいいと思います。でも、もしあなたやお子さんが今、困っていることがあって、それがADHDと関連しているかもしれないと思うなら、専門家に相談してみるのも一つの方法です。原因がADHDであってもそうでなくても、何か困りごとが軽減するヒントが見つかるかもしれません。

画像はイメージです
画像はイメージです 出典: gettymmages

誰もがもつ、他者との関係における「強者性」と「弱者性」

 目の前の人がADHDであると知ったら、あなたはなんと言葉をかけますか? 
 
 私がADHDであることを知ると、反射的に「自分もたぶんそうだと思う」「個性だよね」「才能ある証拠」などの励ましや慰めの言葉を言ってくれる人がいます。「私はあなたを差別していないよ」と伝えたいと思ってのことでしょう。相手が自分とは異なる特性や属性を持っていることがわかったとき、咄嗟(とっさ)にポジティブなことを言わなければと思うのは、ごく自然な、善意ある反応です。私もそういう「励ましと共感」の言葉をこれまでいろいろな人に返してきました。

 でも、障害やジェンダーや人種などで自身がマイノリティであることを実感する経験を重ねるうちに、ときにはそうした励ましの言葉で複雑な気持ちになることもあるとわかってきました。

 例えば、これは経験した人も多いと思いますが、女性に対する「励ましと共感」。「女性の感性は素晴らしい」「本当は女性の方が男性よりも優秀」「男は女性の手のひらで転がされている」などは定番ですよね。女性が女性に言うこともあります。

 でも、社会の著しいジェンダーギャップや性差別の現実を知れば、そういう言葉こそが問題だとわかります。女性を励ますものは、女性礼賛の言葉ではありません。女性ならではの感性ではなく個人の能力に期待すること、優秀な女性を正当に評価すること、女性に私的な領域でのみ裁量を与えるのではなく社会的にも責任ある立場を与えること、それらをただ目指すのではなく、いますぐ確実に実行することが、女性たちの力になるのです。

 だからもし本気で女性に共感を示したいなら、「女性、いいよね。応援してるよ」と言うのではなく、男女が著しく不平等な現状を認めることが第一歩です。その上で、相手を人として大切に扱い、「何か困っていることはありますか。どんな助けが必要ですか」と話を聞いて、自分にできることをやることです。

 これは「アジア人は優秀だ」「障害は個性だ」などの定番の「励ましと共感」にも当てはまることです。誰もが、他者との関係においてなんらかの「強者性」と「弱者性」を持っています。強者は安易に「私たちは同じだよ」「あなたは素晴らしい。応援してるよ」と言いますが、弱者が生きている現実は見えていません。

 私も自分が強者や主流の立場に身を置いているときにはこうした発想になってしまいやすい。マイノリティの立場にあるときの言葉に対する感受性と、マジョリティの立場にあるときのそれとは異なるのです。

 以前、性的マイノリティの人たちが、差別や偏見をなくすための取り組みについておのおのの体験を交えながら語り合う場に参加したことがあります。性的マジョリティに属する私はその場では少数派。自身の無意識の思い込みや想像力不足に気づくことが多く、当然ながら人は属性で一括り(ひとくくり)にできないし、それぞれの事情や実感があるのだということが改めてわかりました。

 その時たまたま発達障害の話になったのですが、一緒に話していた人たちが揃(そろ)って「自分も多分そうだと思う。記事を読むと全部当てはまる」「個性だから大丈夫」「人と違っているのは素晴らしいよ」と励ましてくれました。心からの善意で言ってくれているのがわかったので嬉しかったけれど、でもやっぱり、ちょっと複雑でした。

 じゃあ、リアルに当事者やってみる?結構しんどいんですけど、って言いたい気持ちもありました。他に発達障害の当事者であることを明かしている人がそばにいなかったので、孤独も感じました。

 そのとき、かつて自分が少し話しただけのトランスジェンダー男性に、安易に「その生きづらさ、わかります」と言って、「いや、あなたにはわからない」と言われたときのことを思い出しました。当時は「なんでそんなに頭ごなしに否定するのだろう」と心外に思ったのですが、浅はかでした。自分の一方的な「わかります」の暴力性には全く無自覚だったのです。

 どんな人にも死角はあるし、思い込みや想像力不足をゼロにすることはできません。建設的な関係を築くためには、言葉をかける人と受け取る人が双方で想像力を働かせて、互いの視点のずれを調整する努力が必要なのだなと痛感しました。

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画像はイメージです 出典: gettyimages

「私は人を差別しない」という過信

 相手に気持ちを伝えるのは本当に難しいですね。当事者に向かって「自分は〇〇を全然差別していない」と言うのも、たとえ純度100%の善意であっても、善意のメッセージとしては伝わりにくいものです。

「自分は障害者を差別していないから」「僕は女性を差別しないので」「私はLGBTQへの差別とかほんとにないし」「自分は人種差別意識はゼロで」……などの言い切りは、私はあなたがたの痛みには無頓着ですよと言っているも同然ともとれてしまいます。知識不足や経験不足、相手に不安を与えているかもしれないということへの想像力が足りないかもしれません。

 これまで私も無自覚にそのような態度で多くの人に接してきただろうし、今もそうなりかねないといつも不安です。ことに自分がなんらかのマイノリティ性を意識しているときは、「弱者である自分は、人を差別したりしない」と過信してしまいがちです。でも誰しも相手との関係において強者になる要素を持っているのです。そしてそれにはとても、とても気が付きにくい。

この記事を読んで、自分もADHDかもしれないな?と思ったら、ちょっとこんなことを思い出してくれたら嬉しいです。

(文・小島慶子)

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小島慶子(こじま・けいこ)

エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。

 
  withnewsでは、小島慶子さんのエッセイ「Busy Brain~私の脳の混沌とADHDと~」を毎週月曜日に配信します。
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