連載
#41 Busy Brain
「頭の切り替え」が難しすぎる…小島慶子さん悩ます「凸凹脳」コスト
私の〝厄介な特性〟との付き合い方
40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが綴る、半生の脳内実況です!
今回は小島慶子さんが、余計なお金がかかる・時間がかかる・手間がかかる「凸凹脳のコスト」の困りごとついて綴ります。
(これは個人的な経験を主観的に綴ったもので、全てのADHDの人がこのように物事を感じているわけではありません。人それぞれ困りごとや感じ方は異なります)
余計なお金がかかる、時間がかかる、手間がかかる。私はこれを凸凹脳のコストと呼んでいます。例えばどういうことか。先日私がやらかした、大きな痛手を被った事例です。
金沢に出張する予定のあった私は、前日に現地入りして兼六園や金沢城を見ようと思いつきました。そこで、新幹線をオンライン予約。しかし、出発前夜になっても連載の原稿やインタビューのゲラチェックなどが山積みで、全然仕事が片付きません。パソコンの前から離れられず、気づけば夜が明けていました。予約していた早い時間の新幹線には、もう間に合いそうもありません。
でも大丈夫、オンライン予約は手数料なしで簡単に時間変更ができるのです。よしよし。2時間ほど遅い新幹線に変更して、急いで原稿の仕事を仕上げにかかり、没頭してハッと気づいたらまた、もはや電車に間に合わない時間になっていました。
なんだよ、もう!そこでさらに2時間遅い電車に変更。「車内で書けばいいじゃないか」と思うでしょう?これまでに何度も試みましたが、すぐに揺れに酔ってしまってろくに書けないのです。
なんとか原稿を仕上げて送信、慌てて荷造りし、忘れ物がないか繰り返しチェックしてから、タクシーを呼びました。すると思った以上に早く来てしまい、身支度しながら待たせている間にメーターはどんどん上昇。バタバタと乗り込み、東京駅まで急いでくださいとお願いしました。
本当は朝早くに東京を出て、今頃はもう金沢に着いているはずだったんだよなあ。今から向かうと、着くのは午後。それでも夕方までには数時間あるから、まあなんとかなるか。と、そのとき、いつも右手にはめている指輪をしていないことに気づきました。
あわわわ、指輪指輪! 忘れた! どうしよう!と脳が大騒ぎしています。ああ、だめだ。この状態になるともう、注意をそらすには指に何かをはめるしかありません。以前にも経験があるのです。オーストラリアの家族に会いに行く際に、成田空港で搭乗時間ギリギリになってから、左手薬指に何もはまっていないことに気がつきました。
うああどうしよう、結婚指輪忘れたああ!とパニックになり、出発ロビーのジュエリーショップに駆け込んで「一番安いリングをください! 10分で買えるやつを!」と叫び、確か11万円もするマリッジリングを買ったのでした。まさか自分で自分に結婚指輪を買うことになるとは思いませんでした。まあそのシンプルな指輪は今も家族で砂丘滑りや岩登りなんかをする時の野外用代替リングとして役立っているからいいのだけど、冷静に考えれば指輪なしで飛行機に乗れば良かったのです。
ただ、ひとたび頭が「結婚指輪がない!落ち着かない!」でロックしてしまうと、それから自由になるには何か輪っかをはめるしかないのです。そういう厄介な脳みそなのですね。たまたま足元にナットでも落ちていれば良かったのですが、古いテレビドラマじゃないのでそうはいきませんでした(わからない人は『101回目のプロポーズ』で検索を)。あの出費は、痛かった。
さて、右手の指輪がない!でロックしてしまった脳みそを自由にするためにこれから自分がとるであろう行動を考えると、八重洲口でタクシーを降りて目の前の大丸に駆け込み、「一番安い指輪をください! 10分で買えるやつ!」と叫ぶに違いありません。
デパートのジュエリー売り場では、どんなに安くても数万円の出費になるでしょう。ロックしてしまったからにはもうリングなしでもいいと頭を切り替えることは期待できないので、「新幹線に乗る前に右手に輪っかをはめる」を達成し、かつ金沢での観光時間を確保できる最善の方法を考えねばなりません。時間とお金と労力の3つのコストを秤にかけて、実質的な損害をいかに最小に抑えるかが勝負です。
今予約している新幹線だと、もし大丸の会計で手間取れば、乗り遅れのリスクがあります。指輪代に加えて新幹線代も無駄になったら大損害。一方、もし金沢観光の時間を限界まで削ってもう1時間遅い新幹線に変更すれば、自宅に戻って右手に指輪をはめることができます。
乗るまでに散々待たせたタクシーのメーターはすでにこの時点で4000円を超えていましたが、自宅に引き返してからまた東京駅に行く分を足しても、指輪代よりは安いでしょう。
「すみません、忘れ物をしたので戻ってください。電車の時間はいいんです、変更しますから」。私はスマホで新幹線の予約を変更し、あと少しで東京駅というところから自宅まで引き返してお気に入りの指輪をはめ、ようやく脳みそのロック解除に成功して、ついに東京駅に辿り着きました。
いつもは20分で2000円くらいのところを、1時間以上かけて7700円。これが凸凹脳のコストです。つくづく悲しかったです。
空港で買った指輪もバカ高いタクシー代も、他人に話すと笑い話ですが、本人はかなり凹みます。どうしてこんな困った脳みそなんだろう。なんでこんなに「頭を切り替える」ことが難しくなっちゃうんだろう、しかもどうでもいいことで!!と、泣きたくなります。
日々の暮らしの中でこういうことが積み重なると、経済的な負担はもちろん、強い自己嫌悪でメンタルをやられます。なんでそんな簡単なことができないの?と思うかもしれませんね。それが、一人一人脳みそが違うということです。あなたにとってはなんでもないことが、誰かにとっては深刻な困りごとになってしまう。
それでも私はうんと恵まれています。遅れそうになった時にタクシーを使う余裕があり、間に合わなくても辛抱強く待ってくれる人たちがいて、仕事で失敗しても全てを失うことがなくここまで生きてこられたのは、ひとえに周囲の環境と人の縁に恵まれていたからです。たまたま運が良くて、お金や信用や人脈などのリソースがあったからなのです。
もし何か一つでも巡り合わせが違っていたら、凸凹脳ゆえの危機を切り抜けることは容易ではなかったでしょう。発達障害に対する十分な理解や支援がなく、「みんなと同じ、ふつう」であることに大きな価値を置く日本社会では、困りごとを抱えた人はすぐに弱い立場に追い込まれてしまいます。「ふつう」からはみ出す人や障害のある人が安心して生きていける社会は、きっと障害のない人にとっても生きやすいはずです。
金沢に着いたのは、16時すぎ。駅前のホテルに荷物を置いてタクシーに飛び乗り、暮れなずむ兼六園に向かいます。誰もいない園内を早足で堪能し、カラスの大群が鳴き騒ぐ金沢城を独り占めして、暗くなるまで過ごしました。
僅か2時間足らずの忘れ難い金沢観光。出張前日に一人で自由に街を歩くという当初の目的は、こうして苦い思い出とともになんとか達成されたのでした。
(文・小島慶子)
小島慶子(こじま・けいこ)
エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。
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