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志村けん、付き人から正規メンバーになって決行した〝ドリフ改革〟

定番のネタ「飽きずに繰り返した」理由

付き人からドリフの正式メンバーになった志村けん=1976年
付き人からドリフの正式メンバーになった志村けん=1976年
出典: 朝日新聞

目次

12月27日にドラマ『志村けんとドリフの大爆笑物語』(フジテレビ系)が放送され、ネット上で「コントの再現度が高い」と話題になりました。付き人からメンバーになった志村さんがザ・ドリフターズに与えた影響。その後、生みだした“哀愁漂うコント”に共通するものとは? 『志村けん論』の著者でライターの鈴木旭さんがひもときます。

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ほぼ忠実に再現されたドラマ

『志村けんとドリフの大爆笑物語』は志村けんがザ・ドリフターズの付き人を志願し、24歳で正規メンバーとなり、やがてグループの顔として活躍するまでの半生を描いたテレビドラマだ。

『8時だョ!全員集合』(TBS系)や『ドリフ大爆笑』(フジテレビ系)の懐かしのシーンが登場し、その舞台裏を通してコメディアン・志村けんを追い掛けていく。その中で、銭湯コント、健康牛乳のCMコント、階段落ちコントといった美術セット、コント内の掛け合いがほぼ忠実に再現されていた。

このドラマを担当した福田雄一監督は、『となりのシムラ』(NHK総合)で志村とコントを作った経験もある。だからこそ、志村がどんな部分にこだわるかを認識していたのだと思う。

志村個人においても、よく取材されているのがわかった。“志村がドリフにどんな影響を与えたのか”を示すエピソードが随所に散りばめられていたからだ。

見応えのある細部のエピソード

ドリフの付き人となり、志村は日常の中に笑いがあると気付く。人間観察を続ける中で、やがてリーダー・いかりや長介をほかの4人でギャフンと言わせることが笑いにつながると感じ始める。

ドラマで描かれた展開を鵜呑みにすれば、グループのメンバーとして自信を持った志村がネタ会議で“傲慢ないかりやの足をすくう構図”を提案。それが『ドリフ大爆笑』のコント「もしも威勢のいいお風呂屋さんがあったら」で試され、いかりやの「だめだこりゃ」という名台詞が飛び出すに至ったことになる。

また、いかりやが体力的に限界を迎え、志村がネタ会議のまとめ役になってから、加藤茶との「階段落ちコント」が生まれたというエピソードも新鮮だった。このコントについては、加藤がこう振り返っている。

「あれ全部オンエアーすると、40分ぐらいやってたんじゃない? たぶん。全部カットして、短くして20分(実際のオンエアーは10分程度)ぐらいにしたのかな。(中略)俺がどんなにボケようと志村がツッコんでくれるから、嬉しくなっていろんなことやっちゃうんだよね」(YouTubeチャンネル「IZAWA OFFICE / イザワオフィス」内の「【コラボ】ドリフの大爆笑座談会(前編) 〜コントだドラマだ みんな集まれ全員集合!!〜」より)

ある程度の立ち回りを決め、本番で歌舞伎の見得などを挿し込む“アドリブ合戦”だったという。まさに志村と加藤の瞬発力、信頼関係があってのコントだ。

これに加えて、大きな鏡に体半分だけを映し、万華鏡のようにフワフワと浮いたり、隠れたほうの手が現れて頭から腰あたりをいたずらしたりするコントは、そもそも志村が幼少期に母親の三面鏡でやっていた遊びだったという。今回のドラマは、こうした細部のエピソードにも見応えがあった。

CMの制作発表で一堂に会した、ザ・ドリフターズのメンバー。左から高木ブー、仲本工事、加藤茶、志村けん=2006年6月15日、東京・目黒で
CMの制作発表で一堂に会した、ザ・ドリフターズのメンバー。左から高木ブー、仲本工事、加藤茶、志村けん=2006年6月15日、東京・目黒で 出典: 朝日新聞

素材は同じでも、やっていることは新ネタ

テレビドラマと同日放送の『ドリフ&志村けんの年末爆笑コント祭り!』では、改めて志村の軸にドリフがあったのだと思わされた。

たとえば、無重力状態で天井に水筒のフタが落ちたり、水がこぼれたりして笑わせる宇宙船のコント。今回は、『ドリフ大爆笑』で加藤と志村が演じるものを放送していたが、別の回ではいかりやと仲本工事という組み合わせも見られ、『志村けんのバカ殿様』(フジテレビ系)で志村がゲスト出演者と収録したものもある。

そのほか、赤ちゃんコント、エレベーターコント、原始人コント、ホームレスコントなど、後に志村個人の番組で放送された設定のほとんどは、ドリフの番組ですでに披露されている。ただ、これは単にネタ切れを意味するものではない。志村の弟子である乾き亭げそ太郎はこう語っている。

「『全員集合』の時に『カラスの勝手でしょ♪』が流行(はや)って、ちょっと志村さんが飽きてきた頃に一度やめてるんですよね。そしたら、『うちの子があれを見ないと寝ない』みたいなクレームの電話がたくさん掛かってきた。そこで、志村さんが『自分が飽きちゃダメなんだ』って痛感したみたいで。志村さんから『飽きた』って言葉が出なくなったのは、そこからだと思います。

だから、常に同じキャラクターをやるし、同じネタをやる。あと、ゲストが入ることで受け手が変わるじゃないですか。志村さんの理論でいくと、受け手が変わると、違う間になるし違う言葉になる。『素材は同じだけど、やっていることは新ネタなんだ』っていう意識のもとでやっていましたね」(2021年2月25日に「withnews」で公開された『志村けんの愛弟子が明かしたマンネリの凄み「自分が飽きちゃダメ」』より)

ドリフとは別の“もう一つの背骨”

その一方で、志村特有のコントもある。優香との貧乏親子のコント、ひとみ婆さんや変なおじさんといった名物キャラクターのコントは最たるものだ。

ドリフの場合、たとえ哀愁を感じさせる設定であっても、加藤やいかりやとの掛け合いによって最終的にはライトな印象を与える。しかし、貧乏親子のコントは、やっと手に入れた食べ物を自転車でつぶされたり、犬に食べられたりして、絶望的なラストを迎えて笑わせる。“まさかの展開”という裏切りで落とすのだ。

変なおじさんも、最初にほのぼのとした日常やシリアスな場面を見せ、ラストで変なおじさんが現れてオチになる。『志村けんのだいじょうぶだぁ』(フジテレビ系)を見返すと、いろんな状況設定を試しながら、より強烈な登場シーンを求めてマイナーチェンジされていったことがわかる。緊迫感のあるシーン、もしくはじっくりと切ない状況を描き、溜めにためて最後にギャップで笑わせるのは志村の大きな特徴の一つだった。

また、ひとみ婆さんやイエイエおじさんなど、哀愁漂う名物キャラクターも実に志村らしい。このあたりは、悲喜劇のエッセンスが垣間見える。志村は海外のコメディーに刺激を受け、身の回りで見た人間からキャラクターを造形した一方で、落語の人情噺、三木のり平や由利徹といった喜劇役者の作品も好んでいたという。

ちなみに2006年から舞台「志村魂」をスタートさせたのは、松竹新喜劇の人情喜劇(藤山寛美の演目)を披露するためだ。ストーリー性のある芝居は、志村にとってドリフとは別の“もう一つの背骨”だったと考えられる。

「志村魂」について語る志村けん=2009年5月24日
「志村魂」について語る志村けん=2009年5月24日
出典: 朝日新聞

自然な流れだった「志村魂」

ドラマ『大爆笑物語』の冒頭で、さらりと流れた『雲の上団五郎一座』の舞台中継の映像。これは貧乏な旅回りの一座が劇中劇で歌舞伎の演目など著名な芝居を演じるという趣向の喜劇で、1960年代当時爆発的な人気を博した。普段は仏頂面だった志村の父親が珍しく笑った舞台だ。

「後々僕もまねしてやったんですけど、『お富さん(「お富与三郎」)』っていうネタで『御新造(ごしんぞ)さんぇ、おかみさんぇ、お富さんぇ』っていうのがあるんですよね。それで(三木)のり平さんが(足を)こうやってやるんだけど、なかなか足が組めないんですよね。もう何回もやるんだけど。そこをひっくり返って笑ってましたもんね、おやじは」(2018年5月28日放送の『ファミリーヒストリー』(NHK総合)志村けんの発言より)

この原体験こそが、志村の道を決定づけた。そして、『だいじょうぶだぁ』以降に哀愁漂うコントを生み出し、舞台「志村魂」で人情喜劇を演じるようになったのも、ごく自然な流れだったのではないかと感じるのだ。

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