障害者の定義を揺さぶる58分 余命宣告受けた池田さんの性愛、映画に
「愛について語るときにイケダの語ること」を観た私は…
池田英彦さんの初監督・初主演作にして遺作となった映画「愛について語るときにイケダの語ること」の1シーン 出典: 「愛について語るときにイケダの語ること」提供
「友達になったやつがたまたま障害者だったんです」。身長112センチの障害者が自身の性愛を生々しく描いた映画『愛について語るときにイケダの語ること』のプロデューサー真野勝成さんと佐々木誠さんは、そう語ります。
障害のある姉がいる筆者ですが、映画を観て、自身が誰かをラベリングしがちであることに気づきました。多様性や社会包摂は大上段に叫ぶものではなく、個人の関係として立ち上がってくるものではないか、と感じました。映画制作の経緯や、池田さんへの思いをお二人に伺いました。
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愛について語るときにイケダの語ること:四肢軟骨無形成症で身長112センチの池田英彦さんの初監督・初主演作。がんで余命宣告を受けた池田さんが「セックスを撮りたい」と希望し、障害者のリアルな性愛を生々しく描く。池田さんは「必ず映画館で上映してほしい」と言い残して2015年に亡くなり、今作が遺作。
「障害者」にどんなイメージを抱いていますか? 筆者は7~8年ほど前まで、「障害者は困難を抱えながら前向きにがんばっている人たち」だと思っていました。
しかし、国の制度にあわせてつくられた、障害を持つ人が働く会社「障害者用特例子会社」に就職し、百数十人の障害者とともに働く中で、その「障害者像」は打ち砕かれました。
当然ですが、「障害者」にもさまざまな人がいることを知ったのです。私はそれまで「障害者」というカテゴリーでその人たちを見ていたのだと思います。
筆者には重度知的障害のある姉がいます。生まれたときから障害者という存在が身近にいて、筆者自身も双極性障害と診断されて10数年が経ちました。育てている子どもの発達にも特性があります。
自分自身や身近な人がそうだというのに、もしかしたらだからこそ、障害者に対する偏見があり、おそらく今もあるのだと考えています。
「友だちになったやつがたまたま障害者だったんです」
映画『愛について語るときにイケダの語ること』のプロデューサー、真野勝成さんと佐々木誠さんはそう語ります。
池田英彦さんが初めて監督した作品であり、彼の遺作となった映画です。池田さんは骨の形成が抑制されることにより身長が伸びない難病、四肢軟骨無形成症でした。
編集を担当した佐々木誠さん(左)と、脚本を担当した真野勝成さん 出典: 黒木萌撮影
池田さんは40歳を目前に余命宣告を受けます。池田さんが死ぬまでにやりたいこと、それは「セックス」でした。
彼は自分と女性のセックスをカメラに収めて映画として遺すことを企画します。友人である脚本家・真野さんが協力し、池田さんが亡くなるまでに撮影された素材は60時間を超えました。
「映画を完成させて、必ず公開してほしい」という池田さんの遺言を果たすため、真野さんは佐々木さんに編集を依頼し、映画が完成しました。
2021年9月、「宮崎キネマ館」でこの映画が公開され、プロデューサーのお二人にお話をうかがいました。
真野勝成さん:脚本家。週刊誌記者を経て、第21回フジテレビヤングシナリオ大賞佳作入賞、脚本家となる。担当作品はドラマ『新参者』ドラマ『相棒』映画『デスノート Light up the New world』など多数。本作ではプロデュースと脚本を担当。
佐々木誠さん:映像ディレクター/映画監督。映画作品に『フラグメント』『インナーヴィジョン』『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』『プレイルーム(「熱海の路地の子」)』『ナイトクルージング』などがある。本作では共同プロデュースと編集を担当。
ーーお二人と池田さんとの出会いについて教えてください。
真野:池田とは大学生の頃に出会いました。共通の知人がバンドをしていて、そのライブで出会って意気投合しました。映画を撮り始めた頃にはもう20年以上の友人関係でした。
学校は違ったのですが、二人で会ったりする仲で、社会人になった後も連絡を取っていました。
ーー真野さんはもともと障害やマイノリティーに関心があったのでしょうか。
真野:いいえ。学生時代の同級生にも障害者はいましたが、深い友だち関係になったのは池田が初めてでした。
ーー親しい間柄で撮影するにあたって、気をつけていたことはありますか。
真野:特に気をつけたことはなくて、それまでの関係のままで撮りました。僕たちは映画を撮る前からの長い友達だったので、結果としてフラットな態度になっていると思います。
この映画は池田と僕の関係でしか作っていない本当に個人的な映画なんです。撮影中、普段わざわざ聞かないような質問をして、初めて知った部分もたくさんあります。
ーー映画を作る中で、どんな気持ちがわきましたか。
佐々木:映画を作るときはいつも自分で撮影して編集するので、過去の自分と現在の自分が対話しながら作っているような感じなんです。
今回は池田さんと真野さんが撮影して、自分は構成と編集だけを担当したので、二人と対話しているような気分でした。
編集時期はちょうど昨年の4~5月だったのですが、コロナ禍で先がどうなるか分からない中で、「死」を目の前にしても悲壮感なく飄々と生きている池田さんの姿を目の当たりにして作業にのめり込んでいきました。
いま、異常な日常を僕たちは生きているじゃないですか。池田さんも死を覚悟するという異常な日常、真野さんも親友が死んでいくという異常な日常を生きていた。その状況が相まっていた気がします。
僕は池田さんには1回しか会っていないんです。真野さんも編集には全く関わっていないのですが、3人で一緒に作り上げた感覚があります。編集が終わった頃には、池田さんと親友であるかのような気持ちになりました。
ーー別のインタビューで「感動ポルノにはなっていない」と答えていました。そうしないように気をつけたことはありますか。
真野:感動ポルノとは何かという定義が難しいんですが……。
僕は、作り手が、見る側の価値観を勝手に判断して、反応を決めつけ、「泣いてくださいね」「こういうふうに感動してください」という作りや編集をしてしまっているものをそう呼ぶのかなと思うんですよ。
池田も僕もそういう作品は好きではなかったですから、そうなる要素は初めからなかったんだと思います。
池田はつらいと泣いたり感情的になるシーンを映像に残さなかったです。三人で話し合ったことは一度もないわけですが、前提として「この映画を感動ポルノにはしない」という共通理解があった気がします。
佐々木:さっき真野さんもおっしゃっていましたが、映画を観ること、作ることは個人的な営みなんです。それぞれの生き方や生き様があって、そこがたまたまリンクしたら泣いたり、笑ったりする。観る側の反応のうちで作り手側が予測できることなんて、たかが知れていると思いますね。
もちろん、毎回映画を作るときは当事者とその関係者に対しては最大限の配慮をしています。二重三重に気をつけて作ってはいます。
けれど、すべての表現に通じることなんですが、誰も傷つかない表現ってないんですよね。ただ、今回についてはまだそういう批判は来ていないですね。
ーー映画には、対象の人を作り手がどう見ているかや、その人との関係、一対一の人間としてその人に魅力を感じているかが自然と出るものなのかなという気がします。無自覚にでも相手を下に見ていると、それが感動ポルノにつながるのではないか、と私は考えています。
佐々木:僕は障害を持っている友だちが多いんですけど、障害を持っているというだけで普通ではない、弱者と見られることがある。そういう場面に出合うたびに憤りを感じます。
その友人たちには「俺は感動要因じゃねえよ」という反発がある。そういう人間だから友だちになったんだと思うんですけど。
池田さんは障害があったからこそ、この映画を遺そうと思ったわけだから、もちろん一つの側面としては障害者を描いた映画でもあるんです。
でもそれにとどまらず、たとえば「なぜイケダはモテるのか」「モテるって何!?」ということを考えるための映画だという人もいます。詳しくは映画を観て欲しいのですが、劇中のセリフで言い換えるとすれば、「『愛してる』って言ったことある?」と考えるための映画です。
真野:実際、池田は周りの人たちから人気があったんですが、コンプレックスがあって自分からは積極的に女性にアプローチできないところがあった。だから本人に「モテた」という意識はないと思うんですが、「モテそうだね」と言われるということは、要は「あの人は素敵な人だね」と言われているということですよね。
池田は単純に優しかったし、気遣いの人でした。犬にまで気を遣っていましたから(笑)。とにかく一緒にいて楽しい人間でしたし。だから、これは池田という個人が魅力的だから成り立っている映画なんです。
ーー今回、この映画を拝見して、池田さんという一人の人が確かに生きていたことを実感しました。会ったこともないのに、身近に感じることができました。
佐々木:それを感じてもらえたらうれしいです。池田さんは、身長が低いだけなんですよね。
大前提として、身体的に障害があるということは、暮らしやすい僕らよりも困難を抱えている部分がある。だから制度的に守られなければならないし、配慮はされなければならないと思います。
でも、それを「障害者」という枠組みで考えてしまうと変わってきます。
池田さんの障害と、たとえば知的障害は全く違いますし、同じ障害がある人だとしても別々の人間です。
僕は、自分にとって面白い人間か、そうでない人間かで無意識に付き合う人間を選んでいるはずです。ということは僕もそうされているはずなんですよ。
そういう意味では僕も差別をしているし、されています。人を勝手にカテゴリーで分けたり、自分がマジョリティー側だと思ったりしている人は、自分も偏見の目で見られたり差別されたりしている可能性があることを意識した方がいいと僕は思います。
「愛」「性愛」「死」「障害」「障害を持つ人の性愛」。これは、この映画のプレスリリースに書かれていた言葉です。私は当初、「障害を持つ人の性愛」に特に注目して取材の準備をしていました。
しかし映画を観て「これではダメだ」と思い、質問項目を変えました。なぜなら真野さんと佐々木さんにとって、池田さんは「障害者」ではなかったからです。
もちろん池田さんには身体的に障害がありました。それをコンプレックスに思い、だからこそこの映画を遺そうと考えたのでしょう。
しかし二人にとって池田さんは、障害者である前に一人の魅力的な人間だったのです。私はそのことを作品からもインタビューからも強く感じました。
ふだんから、障害のある人に対して、「障害」がアイデンティティのすべてであるかのように見てしまいがちではないでしょうか。実際には障害はその人の一部でしかありません。そのことを映画やお二人のインタビューから教えていただいたと思います。
私は58分という短い上映時間を通して、一度も会ったことのない池田さんという一人の人をごく身近に感じました。それを友人に話したところ、「一時間で池田さんを好きになったんだね」と言われました。
確かに生きていた池田さんが、死ぬ前に何を感じ、何を考えたのか。それを映画として残したお二人と池田さんの個人的な関係から、何を感じるのか。
池田さんの姿を通して、「自分は『愛してる』と言ったことがあるだろうか」「死を前にして自分だったら何を考えどう行動するだろうか」と自問自答しながら何度でも観たくなる映画です。ぜひ映画館へ足を運んでみてほしいです。
黒木萌:宮崎県在住ライター。ことばが好き。幼い頃から本が好きで、2016年から地元で読書会や本に関するイベントを開催。子育て・教育・福祉分野に特に関心があります。一児の母。