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雨上がり、芸人判断で〝東京進出〟の先駆者だった 後輩芸人に道開く

くくりトーク・ひな壇…体を張って切り開いた功績

解散した雨上がり決死隊の宮迫博之(左)と蛍原徹
解散した雨上がり決死隊の宮迫博之(左)と蛍原徹
出典: 朝日新聞

目次

2021年8月17日をもって解散した雨上がり決死隊(以下、雨上がり)の宮迫博之と蛍原徹。「吉本印天然素材」でナインティナインと人気を二分し、その後コンビの決断で東京進出。ダウンタウンの番組で注目されチャンスをつかみ、『アメトーーク!』(テレビ朝日系)では新たなバラエティーの形を確立した。32年の活動の中で、彼らが残したものとは何だったのか。改めて振り返ってみたい。(ライター・鈴木旭)

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「吉本印天然素材」のリーダー格

1990年代前半、お笑いにダンスを取り入れたユニット「吉本印天然素材」が主に若い女性からアイドル的人気を博した。メンバーは、ナインティナイン、FUJIWARA、バッファロー吾郎ら若手芸人コンビ6組。雨上がりは、そのリーダー格だった。

当時はナインティナインと人気を二分。意気揚々と階段を上がるはずだった。しかし、1992年の「ABCお笑い新人グランプリ」でナインティナインが最優秀新人賞を受賞すると、間もなく『ねるとん紅鯨団』(フジテレビ系)の芸能人大会に出演。知名度は急上昇し、1993年には後の人気番組『めちゃ2イケてるッ!』につながる『とぶくすり』(ともにフジテレビ系)がスタート。とんとん拍子で東京進出を果たした。

この時、同じ「ABCお笑い新人グランプリ」で、雨上がりは優秀新人賞を受賞している。決して悪くない結果だが、その後の流れでライバルの後塵を拝することになった。1990年代中盤、宮迫は相方の蛍原に“東京で勝負しよう”と伝え、コンビの意向で東京進出を果たす。事務所の後押しもない中の一大決心だった。

芸人判断で上京した先駆者

上京後、雨上がりの生活は悪い意味で一変した。事務所のサポートがあるわけでも、東京に太いパイプがあるわけでもないのだから当然だ。あまりに仕事がなく、2人は精神的に追い込まれていった。

1997年10月からは『吉本超合金』(テレビ大阪)がスタートし、天然素材のメンバーで雨上がりとユニットコントもやっていたFUJIWARAが関西でカリスマ的な人気を獲得していく。こうした動きも、雨上がりの焦りに拍車をかけたに違いない。

2014年4月に放送された『サワコの朝』(TBS系)の中で、宮迫は「ある時、(ストレスが)ピークになって目をつぶって赤信号を渡ったんです。トラックが急停車して、『死にてえのかっ!?』って(言われた)」と当時を回想。相方の蛍原も、マンションの7階から身を投げようと考えていたエピソードを明かしている。

まったく先の見えない過酷な生活は1999年まで続いた。しかし、雨上がりがとった行動は、後進の芸人に勇気を与えたように思う。たとえば日本エレキテル連合は、ブレーク前に上京してチャンスをつかんだ。最近の若手でも、ダイヤモンド・小野竜輔、お笑いトリオ・オフローズは、それぞれの意志で上京し、今年元日に放送された『ぐるナイおもしろ荘』(日本テレビ系)の出演権を獲得している。

その後の芸人たちの選択肢が広がった理由の一つに、雨上がりが体一つで切り開いた道があったことは否定できない。

芸人の判断で上京を決めた先駆者だった雨上がり決死隊=2011年11月7日
芸人の判断で上京を決めた先駆者だった雨上がり決死隊=2011年11月7日
出典: 朝日新聞

背水の陣で注目浴びた『ガキの使い』

2人の転機といえば、何と言っても1999年に放送された『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』(日本テレビ系)になるだろう。

出演したのは、「雨上がりだよ!全員集合~!!」という企画だ。番組のレギュラーメンバーが「叩いてかぶってジャンケンポン!!」「古今東西バドミントン!!」といったゲーム対決をする中、新参者の雨上がりが毒気のある容赦のない仕切りを任されるというものである。

実はこの企画には第1弾があり、実際の趣旨は最終的にうまい仕切りのできないココリコ・田中直樹に浜田雅功がブチギレる、というドッキリだった。この浜田の姿を格好いいと感じた山崎方正(現:月亭方正)が、後輩の雨上がりに同じドッキリを仕掛けたいと第2弾が行われたのである。

序盤からダウンタウン相手にヒートアップする宮迫。進行を邪魔されると、2人を正座させてメガホンで頭を叩き、「口答えするな」と浜田の髪を引っ張るなどガンガン攻めていく。山崎に飛び蹴りし、ココリコの2人に毒づき、勢い余ったのか相方の蛍原まで叩いてスタジオを沸かせた。

最終的に山崎が雨上がりにブチギレるのだが、浜田のような凄みはなくあえなく撃沈。むしろ、“後輩の雨上がりが先輩の山崎をねじ伏せる”という構図で視聴者を笑わせた。この関係性は、後の『アメトーーク!』にも引き継がれ、しばらくの間は“番組の最後に山崎が登場し、宮迫に抑え込まれるパターン”がお決まりとなった。

いずれにしろ、『ガキの使い』以降から雨上がりの露出が増え、2000年10月スタートの『エブナイTHURSDAY』、その後の人気番組『ワンナイR&R』(ともにフジテレビ系)へと続いていく。背水の陣でチャンスをつかみ、ようやく雨上がりはスターへの階段を上り始めたのである。

事務所、東西の垣根なくした『ミドル3』

2000年代に入ってとくに印象深いのは、特番の『さまぁ〜ず&雨上がり お風呂かよ! 全員集合』にくりぃむしちゅーがゲスト出演したのをきっかけとして、『ミドル3』(ともにテレビ朝日系)なる番組が放送されたことだ。

タモリ、明石家さんま、ビートたけしを「BIG3」と称するのに対抗し、芸歴やポジションを含めて中堅である3組をミドル3と命名。ゲストを招いたトーク、出演メンバーが若き日に着ていたファッションを批評し合うなど、トークバラエティーの色合いが強いもので、2004年から2007年までに5回に渡って放送された。

さまぁ~ず、くりぃむしちゅーは『新・ウンナンの気分は上々。』(TBS系)でコンビ名を改名したばかり。雨上がりは人気急上昇中という時期だ。番組の終盤に3組が『ミドル3』のレギュラー化を懇願し、カメラに向かって土下座していたのを今でも思い出す。

この番組は、こじらせた中堅を売り出すというだけでなく、事務所や東西の垣根を取っ払った定期的な共演という部分でも先進的だったように思う。番組制作側のキャスティングによる影響もあっただろうが、『夢で逢えたら』(フジテレビ系)終了後の1990年代は、どこか東西の芸人が探り合いをしているようなところがあった。くしくも雨上がりが頭角を現し始めてから、その垣根はなくなっていったのだ。

東西の芸人が集結する代表的な番組『リンカーン』(TBS系)がスタートしたのは2005年のことである。『ミドル3』がその引き金になったと見るのは考え過ぎだろうか。

雨上がり決死隊と『ミドル3』で共演したさまぁ~ず(左)とくりぃむしちゅー
雨上がり決死隊と『ミドル3』で共演したさまぁ~ず(左)とくりぃむしちゅー
出典: 朝日新聞

「くくりトーク」「ひな壇」のフォーマット確立

雨上がりと言えば、2003年4月からレギュラー放送されている『アメトーーク!』を外しては語れない。この番組で「くくりトーク」「ひな壇」というフォーマットを確立し、バラエティーの新時代を築いた。

くくりトークのテーマは大衆的なものからニッチなものまで実に幅広い。「エヴァンゲリオン芸人」「家電芸人」といった人気企画から「油揚げ芸人」というものまで放送されている。当初はスタッフ側が企画を用意したが、品川庄司・品川祐が演出の加地倫三氏に「ひな壇芸人」の企画を提案したところから、“芸人持ち込み企画”がスタート。以降、これが定番の一つとなった。(2008年8月に発売された「クイック・ジャパン vol.79」(太田出版)より)

2000年代初頭は『ガチンコ!』(TBS系)、『¥マネーの虎』(日本テレビ系)など、リアルな風潮がバラエティー界を席巻していた。これに対して『アメトーーク!』は別の可能性を模索し、とくに若手芸人に活躍の門戸を広げたと言える。

千原ジュニアのエピソードを多数持つBコース(2012年解散)のタケト、高校野球事情をよく知るいけだてつや、家事全般に精通する“家事えもん”こと松橋周太呂など、特定の何かに詳しければ知名度は関係なかった。また、ケンドーコバヤシは「越中詩郎芸人」、有吉弘行は品川に「おしゃべりクソ野郎」と言い放ってから一気に飛躍した。

前述の「クイック・ジャパン vol.79」によると、番組演出の加地氏がブレーク後の有吉に「いっぱい出てるね。良かったね」とメールしたところ、「加地さんと雨さんと品川に感謝です」と返信が来たという。『アメトーーク!』は、多くの芸人にとって希望の地だった。

芸人のポテンシャル、熟年解散の例示す

芸人仲間に慕われ、多方面で活躍した雨上がり。宮迫は歌い手や俳優としても活躍し、蛍原はゴルフ、競馬、北海道好きを生かした番組で個性を発揮している。同世代の芸人の中では、もっとも幅広い顔を持つコンビだったのではないだろうか。

2019年の闇営業問題をきっかけに、宮迫はYouTubeの世界に進出。バッシングを受けながらも着々と登録者数を増やし、今では143万人の人気チャンネルとなった。YouTuber・ヒカルのサポートもあるだろうが、そもそも宮迫のバイタリティーが高いのだろう。他方で、YouTubeはニッチなくくりが支持されやすくもある。『アメトーーク!』というバックボーンが多少なり今の宮迫を救ったのかもしれない。

テレビ離れが進む昨今、バラエティーは好感度を重視するようになった。率先して笑いをとりにいくのではなく、人柄や安心感のあるキャラクターで蛍原が支持されているのはその象徴と言える。一方の宮迫は、常に再生回数を求められるシビアなYouTubeへと踏み込み成功した。このことは、芸人がどちらにも振り切れるというポテンシャルを示したと言える。

そんな2人が2021年8月17日をもって解散した。熟年離婚ならぬ、熟年解散である。ほとんどの場合、芸歴の長いコンビは解散しない。少し前におぼんこぼんの解散ドッキリが話題になったが、どんなに不仲であっても縁を切らないのが通常だ。しかし、雨上がりは終止符を打った。

雨上がりの著書「雨上がり決死隊の天使と悪魔」(ぴあ)の中で、蛍原は「『続けな、あかんで』吉本に入りたての僕に、中田カウス・ボタンのボタン師匠がボソッと言ってくれたことがあった。この世界に入って13年になるが、梅田花月の劇場で、師匠が言ってくれたその言葉が、今も思い浮かぶのである」と書いている。

続けることの重要性は、人一倍理解していたはずだ。そんな蛍原が決断したのだから、残念ながら元の鞘に収まることはないだろう。ただ宮迫が希望する通り、解散を経て再びバラエティーでの共演を成し遂げれば、またそれが新たなロールモデルになる可能性もある。いずれにしろ第一線で活躍する芸人としては異例であり、今後も稀なケースの一つとして語り継がれるのは間違いない。

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