連載
#5 #医と生老病死
医者になった私に祖母が言った「死にたい」病室でついた〝噓〟の意味
「わからない」を受け止める覚悟
祖母は一度だけ、見舞いに行った私の手を握り、「死にたい」と言ったことがある――。ツイッターで病理医・ヤンデルとしても医療情報を発信をしている医師の市原真さん。「医と生老病死」をテーマに、ご自身の祖母の「死」について寄稿していただきました。
私の祖母の、生と死の境界がとろけて混ざった半年間のことを書く。
しんどい日々だった。祖母も、家族も苦しんだ。誰もが毎日少しずつ、いやな汗をかいていた。
一方で、それはまた極めて複雑な日々でもあった。私の中で、未だに単色で塗りつぶすことができない未確定で未解決な領域。
まだ十年は経っていないが、だんだん記憶が色あせて細部が不明瞭になっている。今回、withnewsに声をかけてもらったことを最後のチャンスだと考える。何年も挫折し続けてきた執筆を今度こそ終わらせるつもりで、パソコンに向かう。
山奥の病院に祖母が転院し、私は毎週火曜日と木曜日にお見舞いに通うことにした。
当時の私は仕事で毎日病院に泊まり込んでいたが、祖母のお見舞いと称して定時に帰る日ができて、ここだけの話、ふう、とため息をつく感じがあって、つまりはお見舞いのおかげで激務から解放されて少しリラックスしたりもしていた。最初にも断ったとおり、すべてが真っ暗闇だったわけではない。
祖母にも家族にとっても何一つ良いことのない転院であったけれど、こと、私の健康にとってはいいことかもしれないなんてことを、当時もよく考えた。
私はそうやって、わからないまま進んでいく日々に何らかの意味を与えようとしていたのだと思う。
祖母はがんであった。見つかったときにすでに施しうる治療はなく、あとは死を待つのみとされた。ただし、その死は「いつ訪れるかわからない」ものであった。
振り返ってみても、実際、祖母はなかなか死ななかった。
近々死ぬことだけはわかっていた。でも、死が具体的にいつ、どのように訪れるのかはわからなかった。祖母はもちろん、すでに医者であった私にも、一切わからなかった。
思考はクリアであるにもかかわらず便失禁をくり返す祖母に、家族も本人も困り果てた末のCT検査で、大腸にカタマリが見つかった。このとき祖母は102歳。いわゆる超高齢者である。
大腸の奥まったところにできたがんめがけて、肛門からカメラを突っ込んで組織を採取し、病理医に細胞を見せてがんと診断してもらう、「ただそれだけの簡単な検査」を、主治医も家族も、年齢ゆえに躊躇した。本人は言わずもがなであった。
結局、祖母にはそれ以上の検査が行われなかった。診断も治療も中途半端なまま、「がんらしき病気を持っていて、口からいっぱい食べられないがたまにちょっとは食べられる、一応歩けて自分で排泄もできる、しかしときどき腸が詰まる、超高齢者」という、ふわふわとしたステータスでの闘病が始まった。
病理検査をしなかったことは、当時の医学的には極めて妥当である。たいていの医者は同じ判断をしただろう。
しかし、いろいろと「未確定」であったことが、祖母の毎日を少しずつ霧で覆った。
診断が決まらず治療も行えない「がん疑い患者」に、消化器専門医ができることはなかった。医療とは、検査によって何かが確定する度に、小分けにパッキングされたセットツールを用いて、患者の不便をオーダーメードで解決するシステムだからだ。
「この病気だと決まれば、こう治療」
「この症状があるならば、この処置」
エビデンスというパーツによって組み上げられた「巨大医療ロボット」は、特定のパターンに当てはまる外敵を見出すと、過去の経験から組み上げた特定のプログラムを用いて応答する。いわゆるエビデンス・ベースト・メディスンだ。
便利ではあるが、全能ではない。
普通の年齢の患者であれば経験の蓄積がある。でも100歳を越えた患者に対する治療経験なんて、積み上がっていないのだ。エビデンスが足りない。
すると医学にできることは、限られる。わからない領域には手が出せない。
祖母は当初、CTを撮ったいわゆる「急性期病院」にそのまま入院した。口から食べられる食事は限られていたが、ウニやプリンのような柔らかいものを中心に、ときおり笑みを浮かべながら精一杯の美食を楽しんでいたし、たまに処置をしに来る医療スタッフに対しては化粧をして相手するなど誇りも失わずにいた。私はときおり、祖母の乗った車椅子を押して、病院の周りを歩いたりもした。
しかし、がんと確定診断できず、抗がん剤を飲むわけでもなく、手術を待機しているわけでもない患者の居場所は急性期病院にはなかった。桜の季節が過ぎてしばらく経った頃、祖母は「療養型病院」に転院となった。
転院について説明した主治医は、私とさほど年が変わらなかった。
「うちの病院でこれ以上、何もできなくてすみません。でも、次にご紹介する病院も、いい病院だと聞いていますよ」
誠実で、勤勉で、勇敢な医師だった。今でも感謝している。
しかし、「いい病院だと聞いていますよ」の部分を思い出すと、私は同じ医師として彼の言を弁護できるだけでなく、「糾弾」できてしまうことに気づく。
医師が「わかっている」もの。「知っている」もの。「見聞きしている」もの。
主治医は、祖母がこの後向かう病院のことを何もわかっていなかった。
私も、わかっていなかった。
びっくりするくらい何もわかっていなかった。
わからないのに、主治医は「きっといいところだ」と言い、わからないのに私は「お願いします」と頭を下げていた。
こうして祖母の「人生」は「人死」に切り替わった。終わりのない入院生活で食事と排泄をひたすらくり返す日々がはじまった。
見舞いの家族に日替わりで微笑んでいた祖母は、残酷なくらいゆっくりと、私の日常の時間感覚ではほとんど気づかないくらいにじわじわと、表情を失っていった。そのスピードは、あるいは祖母にとって遅すぎたかもしれない。
祖母は一度だけ、見舞いに行った私の手を握り、「死にたい」と言ったことがある。
私はその日から祖母を安楽死させることを考えはじめた。もう一度祖母が死にたいと言ったら私は祖母に注射をしようと考えた。秘密裏に。非合法に。しかし、祖母は二度と死にたいとは言わなかった。
長く耐え続けている人は、ときおり、思っているのとは違うことを試しに口に出してみることがある。「死にたいというメッセージは生きたいサイン」という、コスられまくったネットの名言が、私の中で熱を持って佇んでいた。
私は、祖母の「死にたい」という言葉を、まずは真に受けずに保留すべきだという「極めてまっとうな判断」を下し、自分が殺人者になったはずの世界線を緩やかに拒否した。そして、これは私の希望的な追憶でもあるが、おそらく聡明な祖母もまた、「死にたい」と言った瞬間の私の顔を見て、何かを察したのではないかと思う。
祖母が実際に何を考えていたのか私にはわからない。おそらく祖母にもわからなかったのではないか。
死にたいと言う代わりに、祖母はいくつかの話をするようになった。私がほとんど聞いたことのない、祖母のきょうだいの話もした。今聞いた話を私が忘れたら、祖母が亡くなったあと、このエピソードを知る人は世の中に誰もいなくなるだろうな、とわかるような話もあった。
そして、ここからは私の内面の、深い深い部分にある「髄」の部分にかんすることなのだけれど、私は祖母から聞いた話を、片っ端から忘れていった。覚えていようとすら思わなかった。
私の知らない祖母の話をいくら聞いても、私は脳にそれらを取っておこうと思わなかった。
私は徹底していた。
私は必ず祖母の顔を見て、目を見て話を聞いた。マジカル頭脳パワーで出題されるような、「数秒ずつじわじわと変化していき、変わっていく最中にはどこが変わったのかわからないタイプのイラストクイズ」のように、祖母は会う度に少しずつ小さくなっていった。私はそれを確かに確認していたはずだった。それなのに、私は祖母が死ぬまでの半年間の顔を、あまりよく覚えていない。
変わっていく祖母の顔をいくら見ても、私は脳にそれらを取っておこうと思わなかった。
私はやはり徹底していた。
だから今、私が覚えているのは見舞いのときに話した会話の内容や表情ではない。
実家の居間の、隣の部屋から出てきて、ソファの背もたれに肘を乗せて、ファミコンしている私と弟に向かって、カップケーキでも食べなさいと笑いかける祖母の顔。
寝る前に祖母の手を握って「お・や・す・み・な・さ・い あ・し・た・も・お・げ・ん・き・で」と、7回・9回握った手を振る「おまじない」をやっていたときの声。
元気な頃の祖母の記憶を用いて、私は、薄暗い病室で霧の中にいる祖母の顔を覆ってしまった。おそらく私は狙ってそのようにしていたのだと思う。
だから私は祖母の死をよく覚えていない。もうわからなくなってしまった。
私が最後にお見舞いに行った日、唐突に、祖母は眠っていた。しばらく意識がないと言われた記憶があるが、それを誰に聞いたのか、全く覚えていない。あれは鎮静だったのではないか、と今になってふと思う。しかし、鎮静ではなく老衰だったのかもしれないし、そこはもう、確認するつもりもない。
山奥の薄暗い病院で静かに眠っている祖母を見て、祖母の戦いがもうすぐ終わることを知った私は、デスクの脇に祖母と息子が楽しそうにふざけている写真を印刷して貼り付けた。そして毎日それを眺めながら過ごした。棺桶の中の祖母の顔を忘れ、デスクに貼った祖母の写真の笑顔を今も鮮明に覚えている。
ただひとつ、「死にたい」と語る言葉だけが長らく記憶にこびりついていた。今日の話を自分で消化するためにも、祖母の死のことを文章にしよう、しようと思い続けてきたが、その声が頭に響く限り、どうしても文章にできないでいた。しかし、先ほど、「おやすみなさい あしたもおげんきで」の部分をキータッチしているとき、「死にたい」の声が歯抜けのジェンガのブロックみたいに粉々になって、消えた。
こうして私は祖母の死を何もわからなくなり、祖母の生をおだやかに思い出せるようになった。
私は医療が死をわかるわけがないと思っている。大事な人を亡くした家族であっても、案外、死というものをわかっていないことを、身をもって経験している。そして、おそらくは死んでいく本人も、何もわからないままに死んでいくことがあるのだろうなということを今思う。
あのとき死にたいと言った祖母はおそらく死にたいなんて思っていなかった。週に二回、夕方にあの寂しい病室で、私と昔話をするために祖母は生きていたかったはずである。
私にとって祖母の死とは、生きていた祖母の果てに訪れた点に過ぎない。だから時間軸を戻って何度でも生きている祖母に会いに行く私にとっては、永久に祖母の死がわからない。現象としての死、医学上の死、なんとちっぽけで深遠な点なんだろうと思う。
市原真:1978年生まれ。2003年北海道大学医学部卒、国立がんセンター中央病院(現国立がん研究センター中央病院)研修後、札幌厚生病院病理診断科(現・同科主任部長)。博士(医学)。病理専門医・研修指導医、臨床検査管理医、細胞診専門医。日本病理学会学術評議員、社会への情報発信委員会委員。日本デジタルパソロジー研究会広報委員長。著書に『どこからが病気なの?』(ちくまプリマー新書)、『ヤンデル先生のようこそ!病理医の日常へ』(清流出版)など。Twitterのアカウントは「病理医ヤンデル」(Dr_yandel)。
SNS医療のカタチとは:SNS医療のカタチとは:「医者の一言に傷ついた」「インターネットをみても何が本当かわからない」など、医療とインターネットの普及で生まれた、知識や心のギャップを解消しようと集まった有志の医師たちによる取り組み。皮膚科医・大塚篤司/小児科医・堀向健太/病理医・市原真/外科医・山本健人が中心となり、オンラインイベントや、YouTube配信、サイト(https://snsiryou.com/)などで情報を発信し、交流を試みている。
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