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フジロック直前、苗場の様子は…中止の去年は都会へ〝出稼ぎ〟も
相次ぐ出演辞退、地域の「経済と文化」との葛藤
「3大ロックフェス」の一つとして知られるフジロックは今年、新型コロナウイルス感染防止対策を徹底した上で開催することを発表しました。「コロナ禍で開催する特別なフジロック」となった今年、期間中は数万人が訪れ、盛り上がりを見せる会場に暮らしている苗場の人たちはどのような思いで向き合っているのでしょうか。開催直前の新潟県湯沢町苗場を訪ねました。(ライター/吉野舞)
苗場を訪れたのはフジロック開催の約1ヶ月前の7月。現地に行くのは、3年前のフジロック以来です。当時は、コロナ禍前だったので、どこのステージに行っても基本「密」だらけ。ライブ中にダイブしまくったらTシャツが汗だくになり、夜になると体温を奪われ風邪を引いた思い出があります。
通常、フジロックの会場設備は2週間程度で組み立てられるため、1ヶ月前の会場付近にはステージもなく、キャンプ地は一面緑で覆われていました。会場近くにある通りを歩いてみましたが、ほとんど人がいません。フジロック期間にしか訪れたことのない私は、閑散とした町の様子に驚いてしまいました。
今年の夏、国内の人気音楽フェス「ライジング・サン・ロックフェスティバル」(北海道石狩市)、「ロック・イン・ジャパン・フェスティバル」(茨城県ひたちなか市)が相次いで開催中止を発表。
そんな中、フジロックは2年ぶりに開催を決定しました。1年空いた間にコロナ対策本部を立ち上げ、通常の収容入数を半分以下に抑え、会場内ではマスク着用はもちろんのこと、お酒の販売停止と会場外からのアルコール飲料の持ち込みも禁止に。「コロナ禍で開催する特別なフジロック」を掲げ、例年とは違う独自のガイドラインを作りました。
ちなみに、フジロック常連参加者のことを「フジロッカー」と呼びます。昨年は中止されたにも関わらず、開催予定日になると約300人ほどのフジロッカーが苗場を訪れたそう。ミュージシャンも会場の下見をしに時々苗場を訪れたりと、フジロックと苗場の間には特別な関係があることが分かります。
苗場の町は時代によって様変わりしてきました。町にスキー場が来るまで住宅は15件ほどで山で炭を焼く仕事が中心だったのが、観光地に。スキー場が出来る前から苗場で暮らしていた男性は「暮らしが大きく変わった」と言います。
バブル期は「夏の軽井沢、冬の苗場」と言われており、苗場は日本を代表するスキーリゾート地でした。季節を問わず町に人が溢れかえっており、スキー場内に立地している「苗場プリンスホテル」には、高いハイヒールを履いた女性が車からたくさん降りてくる光景がよく見られたそうです。地元の方曰く、「幼少期のスーパーカーブームの時、苗場プリンスホテルにいけば何かしらの高級車が見られて楽しかった」とか。
しかし、スキーブームが過ぎ去った後、観光客は年々減少傾向に。そこにやってきたのがフジロックです。当初、苗場にフジロックがすんなりと受け入れられた訳ではありません。
町内会議で、当時の苗場プリンスホテルの副社長から「イベントをやりたい」と提案されて、住民の半分が賛成、半分が反対と意見が2つに分かれました。苗場は1日に5万人を受け入れていたスキー場があり、広大な駐車場、新幹線も高速道路も通ってることが主催者側にもメリットでした。
ロックと聞くと、「不良」と言ったイメージを持つ住民も多く、フェスについてはサッカーワールドカップの会場で暴徒化した「フーリガン」を思い浮かべる人もいたそうです。
そこで町内の数名が立ち上がり、視察として初回の開催地の天神山と、2回目のお台場の警察署まで話を聞きに行きました。過去の開催地の様子を踏まえた上で、「一度やってみよう」という声が上がり、1999年に苗場での第1回フジロックの開催が決定されました。
フジロックが行われた年、住民の方は「苗場にバブルが戻ってきた!」と思ったそう。スキーブームの衰退後、フジロックが来たことにより町は再び元気を取り戻し、音楽好きなら誰でも知っているフェスの聖地に生まれ変わりました。
ある年のこと、「ステージでお客さんに花を渡したいから、花を100本用意してほしい」と海外アーティストに言われ、困り果てた運営側から地元に相談がありました。
連絡を受けた住民は、隣の県の花屋にも電話して探し回り、無事、用意できたそうです(突然のことだったので手に入ったのは葬式用の白い菊でしたが、アーティストは感謝をしていたとか……)。別の年、風でテントで飛ばされた人たちがいたら、すぐさま避難所を手配してくれた住民もいます。
苗場には5月末までスキー場があり、7月のフジロックをかわきりに合宿などで町が賑やかになる仕組みがすでに出来上がっているのです。
「フジロックがなかった昨年にありがたみを実感したからこそ、苗場にとってフジロックはスキー場みたいなもので、ないと変だと思っています。でも、今後フジロックがなくなる日が来るかもしれない。そうなった時に町の商売がお手上げ状態にならないように、住民ひとりひとりが今やれることを考えていかないといけない」
地元でこのような声を聞いた時、苗場にとっていかにフジロックが大きい存在かが分かりました。苗場は昨年、夏の合宿やフジロックがなかったことで経済が大打撃を受け、都会まで働きに出ている人もいました。もし苗場からこのまま人が出て行けば、フジロッカーのための宿泊や食事など、これまで地域と連帯し合っていたフジロックの運営にも少なからず影響が出てくるかもしれません。
コロナ禍、不要不急と言われた音楽ですが、苗場を歩くと、フジロックが地域経済だけでなく、街の象徴として根付いていることを実感します。
コロナの感染で亡くなる人が一人でも出ないことが大事だということは言うまでもありません。現地では、今年のフジロックの開催に不安な気持ちを持っている人がいるのも事実です。開催直前になって辞退を発表するアーティストもあらわれています。悩み抜いた末の決断であり、そこにいたるまでの葛藤は想像を超えるものがあったでしょう。
一方で、1999年の第1回から続く22年の積み重ねは、新しい土地で一つの文化が生まれ育つ歴史でもあります。その「文化」に触発されたからこそ、筆者は今年のフジロックでは地元に住み込むかたちで、運営を手伝う予定でした。残念ながら感染拡大により、それはできなくなりましたが、私たちの人生を豊かにしてくれるのはフェスのような文化であり、それは、経済として誰かの生活を支えています。
コロナ禍が現在進行形で進む中、どうすればいいのか。関係者は感染対策と興行の成功を真剣に考えています。あらためて、これまで苗場という土地でフジロックが与えてくれた感動の大きさを考える滞在になりました。
※文章の表現を一部修正しました。(2021年8月22日)
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