話題
巧妙化する「排除アート」 誰にもやさしくない都市が牙をむく時
街中や公園の「座りにくいベンチ」はどう広がっていったのか?

都市の駅のスペースにあるデコボコした突起のようなオブジェ、公園や路上では仕切りのあるベンチが当たり前になってきています。ホームレスが寝そべったり滞在したりしないよう〝排除〟する「排除アート」「排除ベンチ」とも言われます。建築史家の五十嵐太郎さんは、「公共空間に誰かが滞在する可能性をつぶすもの。そんな風に他者を排除していった都市は、誰にもやさしくない都市なのではないか」と指摘します。
排除アートが広まり始めたのは…
オープン1年を迎える複合商業施設のミヤシタパークには、座面がメッシュ状になっていたり、腰かける部分が棒状のポールになったような座りづらいベンチがあります。
好意的に「アートがいっぱい」とメディアで紹介されることもありましたが、五十嵐さんは「アートの名のもと、排除の意図がカモフラージュされている」と指摘します。
駅の空間に座り込めないような突起があったり、街中のベンチに仕切りがあったり……という風景が都市部で広がるなか、それを「意地悪だ」と〝排除〟の視点で指摘するSNSの投稿も話題になっています。排除アート・ベンチの広がりについて、五十嵐さんに話を聞きました。
五十嵐太郎:建築史家、建築批評家。博士(工学)。1967年パリ生まれ。1992年東京大学大学院修士課程修了。中部大学工学部講師、助教授を経て、2005年に東北大学大学院工学研究科助教授、2009年より教授。2008年の第11回ヴェネツィアビエンナーレ国際建築展日本館展示コミッショナー、あいちトリエンナーレ2013芸術監督
私が2004年に『過防備都市』(中公新書ラクレ)を出した頃は、すでに「排除アート」というべき物体が街に現れ始めていました。
――五十嵐さんは、他者への不寛容とセキュリティー意識が増したことから、監視カメラが増え、それと並行して排除アートやベンチが増えたと指摘されています。
2001年に池田小学校で起きた無差別殺傷事件で、街中には監視カメラがどんどん増えていきました。
当時はマスメディアも「監視社会」と問題視していましたが、物理的に監視カメラの存在を感じる機会が少ないからか、慣れてしまったのか、今ではすっかり日常的なものとなりました。

SNS上の反応などをみていても、物理的な影響が実際に見える「排除ベンチ」の方は問題として取り上げられやすいのだと思います。
何かよく分からないものは「アート」
駅前のスペースにある突起や、細かな段差などが「排除アート」とされますが、写真家の都築響一氏が「ギザギザハートの現代美術」と呼んでいました。私が知る中で一番古い用例です。
私は当時、「アート」という呼び方は適切ではないと考え、「排除オブジェ」と呼んでいました。アートというよりデザインに近いと考えています。実際に、海外では「Hostile architecture(敵対的な建築)」や「Defensive urban design(防御的なアーバン・デザイン)」などと呼んでいますね。
日本人のアートへの揶揄なのか、アートのイメージに「役に立たない」「何に使うのかよく分からない」といった刷り込みがあって「よく分からないものだからアートと呼んでおこう」という気持ちからか、そう呼ばれるようになったのかもしれません。

作家の表現であるアートには、作家名が掲載されます。どんなに小さいものでも大きいものでも、タイトルや名前があるものです。
それに比べてデザインは匿名性が高く、誰がデザインしたのかをいちいち記名することは少ないでしょう。
さらに、デザインには目的があります。
発注者が「こういう風に作って下さい」と依頼し、引き受けたデザイナーが「どう解決するか?実現するか?」と意図をもってつくります。

アートは単一でひとつのものを作りますが、デザインはプロダクト(製品)なので大量生産を前提としています。
ベンチメーカーのホームページには、街中でよく見かける間仕切りのあるタイプが載っています。
長居したくないベンチ
一見、アートのような「一品物」にみえるベンチですね。寝そべることはもちろん、長居できない、したくないようにデザインされ、「アート」という名のもと、排除の意図がカモフラージュされています。

有名な建築であれば、ビルのプレートに建築家の名前が書いてあることもありますが、基本的には匿名です。アートのようには作家名とセットでは受け止められません。
改めて「排除アート」は建築に近いと思います。海外で「敵対的建築」というのも現状に近いと思いますね。
誰にもやさしくない都市
ホームレスの人たちが寝転がって、居着かないようにしているのでしょう。しかし、特定の人を排除するベンチは、みんなにとってやさしくないと考えています。
仕切りがあるベンチだけでなく、座面が極端に短かったり、棒状のポールだけだったり……単純に座りづらいですよね。

他者を排除していった都市は、誰にもやさしくない都市になっていきます。
定義されない場所を減らしたい
「そこに誰かが滞在するかもしれない」という可能性をあらかじめつぶしておくのが、排除アートやベンチなのでしょう。
その施設の管理者なのか、自治体なのか……街や公園に「定義されない場所を減らしたい」という気持ちを感じます。
――近所の公園や路上のベンチを見てみると、仕切りのないものを見つける方が難しかったです。
ベンチだけでなく、公園や広場はすでに「○○してはならない」という禁止の貼り紙だらけです。騒ぐ子どもの声がうるさいといって迷惑施設扱いにもなっています。

ヨーロッパでは古代からずっと広場があり、誰がふらふらしていてもいい。政治や集会をする「公共の場」として長い歴史が培われ、現代にも受け継がれています。
一方で日本は「道」がその役割も果たし、広場の文化がありません。だから「○○してはいけない」といった禁止事項を増やす方に流れてしまいます。
「排除していい対象」に変容
私たちが最後の世代なのかもしれませんが、小さな頃は街や駅に傷痍軍人がいました。戦争で身体に大きな欠損を抱えて暮らせなくなったという戦争の犠牲者でもありました。
豊かになっていく日本の後ろめたさもあったのでしょう。駅前や公園に彼らがいても、それは許容されていました。
しかし今では、ホームレスが「自己責任論」とセットになって、排除してもいい対象になってしまっています。
「誰が」排除したいのか?
しかし今では、インバウンド客はほぼいませんし、ふつうに五輪を開くこともできません。
外国人の目からホームレスを隠す必要もない今、「誰」がホームレスを排除したいのか、実は分かっていないところがあるのではないでしょうか。
たとえば夜の公園や路上のベンチで誰かが寝ていることが、そんなに迷惑でしょうか。そこまでみんなが不寛容で、異質な存在の排除を求めているのでしょうか。

――確かに、SNS上をみていても、排除ベンチへの批判の声の方が大きいように感じます。
誰がそこまでの「排除」を求めているのかが分からないまま、「排除が標準になっている」状態があります。
2000年のはじめには、後から間仕切りをつけたベンチが多く見られましたが、現在はデフォルトでつけられているものが増えています。
深く思考しないと、「これまでと同じベンチでいい」という判断になることもあるでしょう。
隠された「排除」の意図に気づくと…
一度「隠された排除の意図」に気づくと、見え方が変わります。
学生に「排除」にあたると考えられるものを撮ってきてもらうレポートを出すと、いっぱい集まってきたんです。
一度こういうものが「意図」を持っている可能性があると知っただけで、専門的な教育を受けなくても、見え方が変わっていきます。
ホームレス排除後の「植物保護」
たとえば街中の花壇や植物も、見え方によっては「美化運動」です。金沢駅前のベンチには、真ん中に花壇が入っています。
「景観をよくしたい」と依頼されて街中のスペースに制作したパブリック・アートが、実は誰かを居させないためや、放置自転車が置かれないためだった…というケースもあるかもしれません。作家が加担しないためには、依頼する側の隠れた意図に気づく必要があります。
もっと露骨なケースは、2005年の愛知万博のときです。開催前、名古屋・白川公園のホームレスが寝泊まりしているエリアで、テントなどが一掃されました。
そのエリアに植物をいっぱい植えて「保護のため入らないで下さい」という看板を立てたんです。当時を知っている人にはその経緯が分かりますが、後から来た人には「植物保護」の意図しか分かりません。

住んでいる人の階級と場所がセットになっているような、アメリカ・ロサンゼルスでは、スプリンクラーをわざと定期的に流して、長時間そこに浮浪者をいさせないようにしている公園があります。
水が飛んできたらさらに居づらいですね。排除ベンチよりさらに攻撃的な感じがします。警備員が定期的に来て、「ここに居座るんじゃない」と追い払うのもスプリンクラーと近いでしょう。
「短時間利用を促すデザインでよい」という意見も
先日、某大学の先生から、私のブログに掲載されている「ホームレス排除ベンチ」の写真を、授業で紹介させてほしいという連絡をいただき快諾しました。その後、授業で紹介したという連絡をいただいたのですが(続) pic.twitter.com/4wYGI5foP7
— 早川由美子Yumiko Hayakawa (@brianandco) June 2, 2021
世界でSDGsが叫ばれたり、バリアフリーがうたわれているにも関わらず、実際には包摂的ではない社会の進行が起きているのではないでしょうか。