コラム
死後、頭部を冷凍保存した大リーガー 最新技術と「満足できる死」
デジタル化された人格として生き続ける試みも
【眠れぬ夜の死の話#2】
「長寿をまっとうした」「早すぎる死」――有名無名を問わず、人間の死の受け止め方には様々なものがあります。子孫を残す、仕事で成果を上げる、有名になる……色々な価値観が生まれる時代、「満足できる死」というものはあるのでしょうか? 最近では肉体の冷凍保存だけでなく、意識をデジタル化する取り組みも生まれています。「どうとでもありうるという節操のなさ」に希望があると言う評論家で著述家の真鍋厚さんに、「死の恐怖」についてつづってもらいました。
愛猫を観察していていつも感じることがある。彼(オス、13歳)は、自分に訪れる死についてあれこれ想像して思い悩んだりすることがない。日々の体調の良し悪しはあっても、まだ起こってもいない最悪の事態などといったものに、心を掻き乱されて精神を病んだりすることはない。そのふくよかな毛をまとった優雅な佇まいは、時として、半世紀に及ぶ厳しい修行の末に、死の恐怖を克服した老禅僧のように映る……。
わたしたちは、両親や兄弟、伴侶や親しい友人などを亡くした際に、自分の死についても必然的に考えることを余儀なくされる。そして、意識するしないにかかわらず「死に対する恐怖をどうすれば和らげられるか」という切実な課題を呼び起こすことが多い。
これは実のところ、自らの死生観が浮き彫りにされる瞬間でもある。例えば、ある特定の分野で歴史に残る偉業を成し遂げたので悔いはないといった、自己の死を受容することができる基準というものが仮にあるとすれば、それは他者に対しても少なからず適用されると推測できるからだ。
以下に、その基準のようなものを主なものだけ類型化して示してみようと思う。これが「死の恐怖」への処方箋にもなっている点が重要である。
物理学者の戸塚洋二は、自身の死を「超克する諦めの考え」の1つとして、「幸い子どもたちが立派に成長した。親からもらった遺伝子の一部を次の世代に引き継ぐことが出来た。『時間とともに進む世界でほんの少しだが痕跡を残して消える』ことになるが、種の保存にささやかな貢献をすることが出来た」と綴ったが、まさに自分の子孫を残すことによる納得の仕方といえる(『がんと闘った科学者の記録』文藝春秋)。
とはいえ、本人も「もっとニヒルになることもある」と追記し、「宇宙や万物は、何もないところから生成し、そして、いずれは消滅・死を迎える。遠い未来の話だが、『自分の命が消滅した後でも世界は何事もなく進んでいく』が、決してそれが永遠に続くことはない」と説明しているように、より長いスパンで見れば、その遺伝子が次の次の世代、さらに後世へと受け継がれるかどうかという不透明さは当然ある。
しかしそれも、広大無辺の砂漠に束の間現れた生き物の、ミステリアスな足跡に過ぎないと甘受することができれば、その「痕跡」はまた違った意味を帯びてくるかもしれない。「痕跡」は遺伝子に限らない。
情熱を注ぐことができる仕事や活動に打ち込むこと、つまり充実した生を追求することによる解決は、自分の子孫を残すことと同じぐらいポピュラーなものといえるかもしれない。
宗教学者の岸本英夫が、がんと闘病しながら「生命の充実感にあふれるような生き方をしていけば、死の恐怖に勝ってゆけるのではないか」と語った方法論である。岸本は「それは、たしかに、一つの解決となり、そして、今でも、(略)大事な生き方となっている」とした(『死を見つめる心 がんとたたかった十年間』講談社文庫)。
これは仕事や活動の周囲からの評価とあくまで不可分なものではあるが、社会において有意義な存在として密度の高い人生を送ることは救いとなるだろう。これは死の恐怖に追いつかれまいと全力疾走する側面が強いが、岸本が「癌のおかげで、ほんとうの生活ができるのだという感じがする」(同上)と述懐したように、死が優秀な伴走者となるのであれば、それは前述した「痕跡」の妙と同じく、世界を別の視点から眺めるきっかけになるだろう。
よく宗教は死に対する恐怖から生まれたという俗説があるが、来世や輪廻に疑いを持たない人々は、確かにあまり死ぬことに頓着していないように見える。
しかし、大規模な国際調査によれば、宗教を持つことが必ずしも死の不安を軽減するわけではないことが分かっており、むしろ宗教を持たない人々の方が持つ人々よりも死を恐れていない研究結果すらあるほどだ(The religious correlates of death anxiety: a systematic review and meta-analysis/Religion, Brain & Behavior)。
地域ごとに異なる文化や、年代、人生経験等々の変数が関わっていることから、一概にはいえないということなのだが、死後の世界の実在を体験的に会得した人々は、総じて死の不安は取り除かれているように思える。
かつて筆者が出会ったことがある複数の臨死体験者は、声を揃えて死が怖くなくなったと断言しているからだ。実際、それを裏付ける論文もある(臨死体験による一人称の死生観の変容―日本人の臨死体験事例から―/岩崎美香)。ただし、これをある種のオリエンテーションのように人工的に作り出すのは至難である。
神秘的体験のようなものもいずれは解明されるとする科学的世界観を内面化した現代人にとって、そもそもあるのかないのか判然としない霊魂よりも、物理的な身体の永続可能性を探る方が現実的という立場もある。
クライオニクス(人体冷凍保存)がその代表格といえる。米国のアルコー延命財団がよく知られており、プロ野球選手のテッド・ウィリアムズが本人の遺言に従って、頭部のみを冷凍保存したことが話題になった。これは現在の技術では蘇生は絶対に不可能だが、遠くない未来にはそれが可能になるとの見通しに寄りかかったものだ。
むろん多くの識者が批判しているように、冷凍されたまま復活しない蓋然性は高い。けれども、仮に0.1パーセントでも望みがあるのであれば、遺体が処分されるよりはましと考えるのである。
同財団を取材したメアリー・ピロンは、「彼らは、身体を未来に〈再起動〉すべきマシンと捉えているのだ」と評した(全身2200万円でできる 人体冷凍保存の最前線/VICE)。確かに、ゼロに近いとはいえ未来の蘇生可能性に賭けることは、多少なりとも心理的な緩衝材の役割を果たすのかもしれない。なぜなら、曲がりになりにも物質としての形態が崩壊を免れ、保全されていることが安心感を生むからだ。
一方で、自らの物理的な存在よりも情報的な存在を重視するアプローチもある。簡単に言えば、死後も情報空間においてデジタル化された人格として生き続けるという道だ。
現在、多数のベンチャー企業が開発中だが、マサチューセッツ工科大学メディアラボの客員教授であるセイン・ラーナマが手掛けている「オーグメンテッド・エターニティ(Augmented Eternity)」というアプリケーションは、死後も自身の代理として人々と対話できるデジタルの人格を作成することを目指している(人類は永遠の夢「不死」をデジタルで手に入れるのか/MIT Technology Review)。
もっと大胆に人間の意識そのものをアップデートしようとする試みもある。けれども、身体から機械に意識を転送するという発想は、即座にその意識が本人と同一であるかどうかの疑念を呼ぶ。
恐らく霊魂が他の肉体に宿るようなイメージをなぞっているといえるが、デジタルで構築された来世でアップロードされるのは結局、膨大な情報が集積された当人の人格に似せた何者かでしかない、というわけだ。
そこで、最後の手段として魅力的なものとして浮上するのが、もしかしたら自分というもの自体がないかもしれないという自己の定義自体を解体するアクロバティックな視点だ。
脳科学の潮流はまさにその只中にある。自我や自己という固定的で連続性のある人格像をことごとく否定するもので、「私」という主体性を前提とした認識が錯覚であることを突き付けている。
認知神経科学者のマイケル・S・ガザニガは、左脳にある「インタープリター(解釈装置)モジュール」が後付けで「自己という幻影」を拵えていると主張する。
脳は膨大な情報を並列処理する複数のアルゴリズムで構成されており、その結果として優位に生じる感覚などについて常に事後的に解釈しているだけであり、自己同一的な「私」という中央制御センターのようなものは存在しないというのだ(『〈わたし〉はどこにあるのか ガザニガ脳科学講義』藤井留美訳、紀伊國屋書店)。
であるならば、「私という実体がない」のだから「実体がないもの」に振り回されることがおかしいといえる。仏教における無我説のように、自己が妄想であることに気付く方向性だ。
もちろん、死ぬという未来について過度に囚われることなく生きることができるのであればそれに越したことはない。
「人間が死ぬことは生物として避けようのない運命なのだから考えても仕方がない」「死んだ後のことなんて誰も分からないのだから悩んでも意味がない」「今を一生懸命生きることが重要だ」……。
どんな状況であってもこんなふうに割り切ることができる人は幸せだ。けれども多くの人々は恐らく、ほどほどの不安を抱えながら死へと歩みを進める。これまで列挙してきたものも含めてありとあらゆる考え方が役に立たないかもしれない。
そして、そもそもそのような次元の問題ではなかったことに気付くかもしれない。と言うのは、わたしたちは絶えず変化しているからだ。
以前は執着していた物事がどうでも良くなる、さして感情が動かされなくなるということが分かりやすいが、周囲の人よりも本人がその変化に驚いているということがよくある。
研鑽によって習得された心構えが一瞬で崩れ落ちたかと思えば、突然何の精神的修練がないところから悟りに至ることが起こりうる。これは何なのか? わたしたちは非常に残念なことに、概念としての死を持たない猫のような境地にはほど遠いかもしれないが、このひたすら考えることを止められず視点を転換し続ける存在のあり方、どうとでもありうるという節操のなさがむしろ福音となるかもしれないのだ。
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