連載
#34 Busy Brain
小島慶子さんが静寂に身を置いて気づいた「多数派を前提にした社会」
社会は隅々まで、見えること、聴こえることを前提にしてデザインされている
40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが綴る、半生の脳内実況です!
今回は、小島さんが前回の連載で語った「薬を飲んでみたら頭の中が静かになった。ADHDの特性が抑えられると脳内はこんなにシーンとしているものなのかと驚いた」がネットを中心に反響を呼んだことについて、不思議に感じたその理由を綴ります。
(これは個人的な経験を主観的に綴ったもので、全てのADHDの人がこのように物事を感じているわけではありません。人それぞれ困りごとや感じ方は異なります)
この連載で、「薬を飲んでみたら頭の中が静かになった。ADHDの特性が抑えられると脳内はこんなにシーンとしているものなのかと驚いた」と書いたら、ネットで大きな反響があったそうです。友人知人からもメッセージが届きました。
これまでいろいろな「私の場合はこのような困りごとがある」という話を書いてきましたが、なぜ「薬を飲んだらこうなった」はそんなに多くの人の興味を引いたのだろうと、不思議でした。
メッセージをくれた人の中には「私も薬を飲んだときに同じように感じた」という発達障害を持つ人からの声もありましたが、多くは「ADHDの人の脳がどんな感じか、よくわかった」という反応でした。
でももしかしたら、それはADHDの人の脳みそがわかったのではなく、ADHDの人から見た「普通の人」、つまり自分たちの脳みそがどういうものかをイメージできたから「わかった」と思ったのかもしれません。
人は基本的に、他人よりも、自分に興味があるものです。自分は「普通の脳みそ」の持ち主だと思っている人たちは、困りごとを抱えた人の脳みそを知ることよりも、そうした「普通ではない」脳みそを持つ人たちから、自分たちがどう見えているのかを知りたいのではないでしょうか。
SNSでは、視覚障害でほとんど目が見えていない赤ちゃんが、初めて眼鏡をかけてお母さんの顔を見たときの様子や、聴覚に障害のある赤ちゃんが、初めて補聴器をつけてお母さんの声を聴いたときの様子を撮影した動画が、たくさんの「いいね」を獲得しています。感動的だ! と。これは、見えている・聴こえている人たちが、「見える・聴こえる」ことがどれほど素晴らしいかを、子供達が歓喜する様子を通じて確認することができるからではないかと思います。
車いすの人が立ち上がったり、歩けなかった人が歩けるようになったりしたときに「感動する」のも、やはり同じように「立つ・歩く」という自分たちにとってはごく当たり前のことが、実は素晴らしい奇跡なのだと改めて気づかせてくれるからでしょう。
これらは、見えないよりも見えるほうが、聴こえないよりも聴こえるほうが、立てないよりも立てるほうが、歩けないよりも歩けるほうが、喜ばしいという前提で成り立つ「感動」です。もちろん、当人が喜んでいる様子に共感しているということもあるでしょう。
私がADHDの薬を飲んで「へええ、ADHDの特性が抑えられた脳みそって、こんなに静かなんだ!」と驚いている様子は、欠陥のある脳みその持ち主が「普通の」脳みその世界を初めて知って、喜んでいるように見えたのかもしれません。視覚に障害のある赤ちゃんが、初めて眼鏡をかけたときと同じように。
障害がない人は、自分の身体や精神の「健常さ」を意識することはほとんどないでしょう。でもけがをしたときには、街が急に不便だらけの場所になります。体やメンタルの不調を経験すると、それまでの職場が急にしんどく感じられます。そういうときに初めて、「普段何不自由なく生活していたのは、ありがたいことだった」と感じるでしょう。
そんなときに、社会や職場の方にも目を向けてみると、ほとんどのものが「普通の」人用につくられていることに気づきます。自分が「普通」の側にいるときには意識しない当たり前のことが、「普通ではない」立場になったときには大きなハードルになってしまうのです。
では普通って、どういうことでしょう? 目が見える。耳が聞こえる。歩く。じっとしていられる。相手の表情から感情を察する……などなど、普段当たり前にやっていることが、どんな仕組みで行われているのかを考えたことは、あまりないですよね。
きっと、私が「薬を飲んだら頭の中が静かになって、これなら落ち着いてものを考えられると思った」と書いたのを読んで、多くの人が初めて自身の脳みその「普通さ」がどのようなものであるかを自覚したのではないでしょうか。他人の障害についてではなく、自分の健常さについて知ったから、新鮮だったのだと思います。
以前も書いたように、私が体験したのは「普通の人の脳みそ」ではありません。薬を飲んでADHDの特性が抑えられた「私の脳みそ」です。そう断りを入れてもなお、あの記事を読んで「普通ではない脳みそと普通の脳みその違いがわかったぞ!」と感じた人が多かったのです。「普通か、普通でないか」を知りたい気持ちというのは、とても強いのですね。
障害について知ろうとするときには、当事者の困りごとや実感を知ることはもちろんですが、健常者である自分が、なぜ「健常」でいられるのかを考えるのも、同じくらい大事なのではないかと思います。
そして「障害がある人たちはきっと、健常者と同じような体になりたがっているのだろう」と、無意識のうちに思っていないか、自問してみると発見があるかもしれません。
一つ、興味深い取り組みをご紹介しましょう。東京・竹芝にある「ダイアログ・ミュージアム 対話の森」という体験型ミュージアムです。ドイツ発祥の多様性体験プログラムを実施している日本で唯一の施設で、プログラムは3つあります。
視覚障害があるアテンドが案内する闇のツアー「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」、聴覚障害があるアテンドが案内する静寂のツアー「ダイアログ・イン・サイレンス」、後期高齢者のアテンドが案内する時間を重ねた世界のツアー「ダイアログ・ウィズ・タイム」(現在は一部プログラムのみ実施中)。アテンドたちは、訓練を受けたコミュニケーションのプロです。
私は「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」と「ダイアログ・イン・サイレンス」を体験したことがあります。闇の中では、いくら目を凝らしても、何一つ見えません。自在に動けるアテンドだけが頼りです。静寂の中では、声でコミュニケーションすることはできません。表情と身振りの豊かなアテンドと全身を使って対話するうちに、自分がいかに「察してもらう」ことに甘えていたかを痛感します。
闇の中、静寂の中に身を置いたとき、見えない人、聴こえない人に対する見方が大きく変わります。自分は、光がなければ自由に動けない、音がなければ自由に話すことができない。「見えること・聴こえることは良いこと、望ましいことだ」と思っていたけれど、それは社会が隅々まで、見えること、聴こえることを前提にしてデザインされているからだったんだ、と気づくのですね。
発達障害がある人の中には、服薬することで困りごとが軽減して暮らしやすくなる人がいます。薬を飲んだときにその人がどんな変化を経験するのかは、それぞれに異なります。同じ体は二つとないからです。きっと発達障害を持たない人の脳みそも、一人一人異なる「普通」を生きているはずです。「普通と、普通でないもの」という分け方は、障害の有無にかかわらず、個人の存在を見えなくしてしまうのですね。
(文・小島慶子)
小島慶子(こじま・けいこ)
エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。
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