連載
#30 Busy Brain
ADHDのイメージとは? 小島慶子さんがテレビ取材で感じた疑問
あなたなら、どんな映像を期待しますか?
40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが綴る、半生の脳内実況です!
今回は、ADHDをテーマにしたテレビ取材を受けた小島さんが、そのときの経験をとおして感じたメディアが求めるADHDのイメージ、丁寧に正しく伝えることの大切さについて綴ります。
(これは個人的な経験を主観的に綴ったもので、全てのADHDの人がこのように物事を感じているわけではありません。人それぞれ困りごとや感じ方は異なります)
「ADHDとはどんな障害か、ぜひ密着取材させてください」という依頼がこれまでに何度かありました。その度に「映像で捉えるのはなかなか難しいですよ。脳の中で起きていることは、テレビには映らないですし……」と繰り返しお伝えしてきました。
あなたは、どんな映像を期待しますか? ADHDの人の部屋はぐちゃぐちゃに散らかっており、机の上には書類が堆(うずたか)く積まれ、ぶつぶつと独り言を言いながら、部屋の中でいつも探し物をしている・・・これが納得のいくイメージでしょうか。
ちなみに私の場合、部屋はいつも人並み以上に片付いています。そうでないと落ち着かないし、どこに何があるのかがわからなくなって、永遠に探し続けることになるからです。忙殺されているときには届いた荷物が玄関のたたきに積み上がったり、開封されていない郵便物が積み上がったりすることがありますが、それも置く場所が決まっており、「ここに開封するべきものがある」とはっきり認識できるように一塊(ひとかたまり)にしてあります。
決して部屋のあちこちに適当に積んだりバラバラに置いたりはしません。そうでないと、存在を忘れてしまうからです。本棚の前の床には溢れ出した本が積んでありますが、それだって乱雑に積み上げず、本棚の延長のように積んであります。部屋の調和を乱さないように注意を払っているのです。じゃないと、そればかり目についてイライラしてしまうから。
床がざらついていたり、うっすら積もった埃(ほこり)が西日に光ったりすると気になって仕方がないので、こまめに掃除をします。水栓や食器棚の扉に指紋がベタベタと残っているのも目障りです。シンクの周りはいつもきちんと拭き取られ、ふきんは臭ったり変色したりしないように絞って広げて干してあります。洗濯物は決まった畳み方で決まった場所にしまいます。
何か気になるものが目に入ると仕事に集中できないので、部屋の中のあらゆるものはきちんと向きを揃え、ガチャガチャとしたデザインのものはなるべく見えないようにしています。洗面所もキッチンも、ものがあるべき場所にあることが重要です。そうやって、この気の散りやすい脳に余計な情報が入らないようにしているのです。
整理整頓されたデスクの上には、何枚もの手書きメモがあります。やるべきことの優先順位を書き留めたものです。終わるたびに線を引いて消していきます。進行中の仕事の企画書や資料はクリアファイルに入れて締め切り日を書き入れた付箋を貼り、見えるようにして重ねてあります。もちろんスマホやPCのリマインダーも使います。
ここまでやっても、スケジュールの勘違いやうっかり忘れは珍しくありません。まるで魔法にかかったみたいに、ポンと頭から抜けてしまうのです。
周りの人は「なんで?」と思うでしょう。当人も思います。「なんで!?」って。障害という言葉が自分の状態を表すのにふさわしいと思うのはそんなときです。
でもそれを映像にしたら、きれいに片付いた部屋のきちんと片付いたデスクのPCに向かっている私が映っているだけ。頭の中はスケジュールのミスに混乱し、ひどく落ち込んでいるのですが、それは映像からはわかりません。
ある番組では「ADHDはいつも喋(しゃべ)りすぎてしまう」ことを視覚化するために、別の番組で私がコメントした映像を早回しにし、次に無表情の司会者の顔を映して、「ベラベラと取りとめのない話をする小島に司会者がうんざり」という印象を与える映像に加工しました。
私は20年以上もこの世界で仕事をしています。テレビで、その場に関係のない話を長々と喋ることはありません。コメントをするときは、一言のときもあれば、長めに話すこともあります。何百万人が見ているテレビでは、意見を言う際に丁寧に説明をしないと誤解を与えかねないことがあるからです。また、司会者が黙って話を聞いている顔を切り取って「なるほどなあ」「考えさせられるなあ」「興味ないなあ」「早く終わらないかなあ」などの字幕やナレーションを入れたら、どれもまさしくそのような表情に見えるものです。では、番組の一部を切り取って上記のような映像に加工したのはなぜでしょうか。そもそも、テレビ的な歯切れの良さよりも丁寧に伝えることを優先したら、それは“ダメな人”、“困った人”なのでしょうか。
もしかしたら密着取材中に、私がたまたまカメラの前で「ADHD"らしく"その場に関係ない話を喋りまくる」ことがなかったので、視聴者にわかりやすく見せようとして、やったことかもしれません。
取材してくれた人は、とても真摯で丁寧でした。発達障害を理解しようという真剣な思いを感じました。それでもやはりテレビでは「画(え)にする」ことが、どうしても必要だったのだと思います。でもそれは果たしてADHDに対する理解を深めるでしょうか。私はそうは思いませんでした。全体としてはとてもいい番組だったので、ちょっと悲しかったです。
テレビで伝えるべきなのは「ADHDかどうかが、パッと見でわかりやすいこともあれば、よくわからないこともある。一見問題なさそうでも、本人はひそかに困っていることがある」ということでしょう。つまり「脳の中はテレビに映らない」ということを、見せるのです。
それはADHDへの先入観や思い込みをなくす助けになるでしょう。人それぞれに障害の表れ方が違うことを知れば、見えないところで困っていることがあるかもしれないと考えることができます。
そもそも、ADHDでなくても多弁な人はたくさんいます。その場に必要な内容を残り時間に合わせて自在に長さを調節して話すことができる人は、むしろかなり少ないでしょう。また、議論の大事なポイントであえて長めに話すこともありますよね。話が長い人は全てADHDで、ピントがずれた話をする人はみんな発達障害なのでしょうか。
今日は喋りすぎてしまったかなとか、ちょっと自分の話ばかりだったかなとか、あなたにはそんな経験はないですか? 誰でも思い当たりますよね。「誰が発達障害で、誰が“正常”か」を見分けることには、どんな意味があるのでしょうか。
障害について知ることは「誰が生まれつきの欠陥品か」を見分けるために必要なのではありません。困っている人に気づくことができるようになるために、必要なのです。発達障害は心がけややる気の問題だと決めつけずに、困りごとを抱えた人に耳を傾ける人を増やすためです。
私は幼い頃から、どのように話せばよりわかりやすく、人が興味を持って聞いてくれるかを、それこそ傷だらけになりながら試行錯誤して身につけました。障害の有無にかかわらず、誰だって話すことは怖いし、上手にできないものです。だから相手の話を引き出し、安心して話せるようにすることにも、人一倍敏感になりました。それが結果として、たまたま仕事になっています。
自身のADHDの特徴とうまく付き合えるようになるまでの過程は、例えていうなら、レーシングカーのエンジンを搭載した車で公道を走る訓練をするようなものです。
街中でいきなりアクセルを踏み込んだら大事故になります。何度も大きな事故を繰り返しながら運転のコツを覚え、難しい制御ができるようになり、やがて、街中を走るときは安全に、レース場では最高のパフォーマンスを発揮できるように洗練されていきます。それには長い年月と数えきれない失敗と、絶え間ない努力と学習、そして周囲の人に恵まれることが必要です。それでも、なかなかうまくいかないこともあります。私の場合は、たまたま自分の特性と選んだ環境がうまく調和して、努力が仕事につながっただけです。
発達障害のある人が、人気芸術家や世界的アスリートや、優れた研究者や大物政治家や、カリスマ経営者になることもあります。ただ、そうしたごく一部の例だけを見て「ADHDは天才だ」などというのも、障害に対する見方を歪(ゆが)めてしまいます。障害のない人にも凡人と天才がいるように、障害のない人にもいろいろな人がいるのです。
障害のある人を「普通よりも劣っている人たち」や「人並み以上に優れている人たち」という枠にはめると、顔が見えなくなります。障害ではなく「その人」を見るようにして欲しいです。「見る」とは、粗探しをすることではありません。
目に見える欠陥を探すよりも、見えないところに対する想像力を持つことの方が、ずっと大切なのです。これはあらゆる人間関係に通じることではないかと思います。
(文・小島慶子)
小島慶子(こじま・けいこ)
エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。
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