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連載

#25 帰れない村

「見えない戦場」だった福島で出会った夫婦、撮り続けた写真家の10年

震災直後に飛び込んだ双葉町で被災者の写真を撮影する豊田直巳さん=2020年9月、福島県双葉町、三浦英之撮影
震災直後に飛び込んだ双葉町で被災者の写真を撮影する豊田直巳さん=2020年9月、福島県双葉町、三浦英之撮影

目次

帰れない村
東日本大震災から間もなく10年。福島県には住民がまだ1人も帰れない「村」がある。原発から20~30キロ離れた「旧津島村」(浪江町)。原発事故で散り散りになった住民たちの10年を訪ねる。(朝日新聞南相馬支局・三浦英之)

「見えない戦場」だった福島

報道写真家・豊田直巳さん(64)にとって、福島は「見えない戦場」だった。

2011年3月13日朝。原発から約4キロの双葉町の病院に近づくと、イラク戦争取材時に劣化ウラン弾の放射線量測定で使った毎時1千マイクロシーベルトまで計れる測定器が振り切れた。

震災直後に飛び込んだ双葉町で当時を振り返る豊田直巳さん=2020年9月、福島県双葉町、三浦英之撮影
震災直後に飛び込んだ双葉町で当時を振り返る豊田直巳さん=2020年9月、福島県双葉町、三浦英之撮影

4月17日、旧津島村を抜ける国道を走行中、無人の集落で人影が動いた。

「何をしているんですか?」

車を降りて話しかけると、赤宇木集落で暮らす関場健治さん(65)が戸惑いながら答えた。

「何って、ここは俺の家だから」

関場さん夫婦は震災後、一度は会津若松市の親類宅に避難したが、猫が心配で自宅に戻っていた。見回りに来た自衛隊員に「大丈夫ですよ」と言われたので、そのまま住み続けていたのだ。

ところが、豊田さんが敷地を測ってみると、毎時約30マイクロシーベルト。雨どい付近では同約500マイクロシーベルトもあった。

「大変だ。2時間いたら(一般人の年間追加被曝線量の)1ミリシーベルトを浴びちゃう」

夫婦は慌てて身支度を整え、豊田さんに見送られるようにして再避難した。

苦悩する夫婦の姿を撮り続けた

あれから約10年。

避難生活は悲惨だった。帰りたいのに、帰れない。思いを断ち切るために茨城県内に新築住宅を購入したが、結果は逆だった。

「俺はここで死ぬのか」

「先祖と同じように津島で死にたい」

眠れない夜を何度も重ねた。

豊田さんはそんな苦悩する夫婦の姿を撮り続けてきた。

出版した子ども向け写真集『百年後を生きる子どもたちへ』(農文協)には、一時帰宅で自宅に手を合わせる妻和代さん(62)の写真に文章を添えた。

「帰るたびにわが家は、だんだん、草木におおわれていきます。ありがとう。そして、ごめんなさい。和代さんは、こころのなかでつぶやきます」

一時帰宅で自宅に手を合わせる関場和代さん=豊田直巳撮影
一時帰宅で自宅に手を合わせる関場和代さん=豊田直巳撮影

昨秋、関場さんは育てた野菜を青空市で販売するため、福島市を訪れていた。横ではいつものように豊田さんが撮影している。

関場さんは言った。

「感謝しています。故郷を思いながら避難生活を続ける我々を記録し、伝えてくれる。彼がいなければ、そんな苦悩も、世の中から忘れ去られてしまうから」

写真家がカメラで顔を隠して泣いていた。

笑顔で写真に収まる豊田さん(左)と関場さん=2020年10月、福島市森合、三浦英之撮影
笑顔で写真に収まる豊田さん(左)と関場さん=2020年10月、福島市森合、三浦英之撮影
 

東京電力福島第一原発の事故後、全域が帰還困難区域になった福島県浪江町の「旧津島村」(現・津島地区)。原発事故で散り散りになった住民たちを南相馬支局の三浦英之記者が訪ね歩くルポ「帰れない村 福島・旧津島村の10年」。毎週水曜日の配信予定です。

三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。最新刊に新聞配達をしながら福島の帰還困難区域の現状を追った『白い土地 福島「帰還困難区域」とその周辺』と、震災直後に宮城県南三陸町で過ごした1年間を綴った『災害特派員』。

南相馬支局員として、原発被災地の取材を続ける三浦英之記者
南相馬支局員として、原発被災地の取材を続ける三浦英之記者
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