連載
#25 帰れない村
「見えない戦場」だった福島で出会った夫婦、撮り続けた写真家の10年
報道写真家・豊田直巳さん(64)にとって、福島は「見えない戦場」だった。
2011年3月13日朝。原発から約4キロの双葉町の病院に近づくと、イラク戦争取材時に劣化ウラン弾の放射線量測定で使った毎時1千マイクロシーベルトまで計れる測定器が振り切れた。
4月17日、旧津島村を抜ける国道を走行中、無人の集落で人影が動いた。
「何をしているんですか?」
車を降りて話しかけると、赤宇木集落で暮らす関場健治さん(65)が戸惑いながら答えた。
「何って、ここは俺の家だから」
関場さん夫婦は震災後、一度は会津若松市の親類宅に避難したが、猫が心配で自宅に戻っていた。見回りに来た自衛隊員に「大丈夫ですよ」と言われたので、そのまま住み続けていたのだ。
ところが、豊田さんが敷地を測ってみると、毎時約30マイクロシーベルト。雨どい付近では同約500マイクロシーベルトもあった。
「大変だ。2時間いたら(一般人の年間追加被曝線量の)1ミリシーベルトを浴びちゃう」
夫婦は慌てて身支度を整え、豊田さんに見送られるようにして再避難した。
あれから約10年。
避難生活は悲惨だった。帰りたいのに、帰れない。思いを断ち切るために茨城県内に新築住宅を購入したが、結果は逆だった。
「俺はここで死ぬのか」
「先祖と同じように津島で死にたい」
眠れない夜を何度も重ねた。
豊田さんはそんな苦悩する夫婦の姿を撮り続けてきた。
出版した子ども向け写真集『百年後を生きる子どもたちへ』(農文協)には、一時帰宅で自宅に手を合わせる妻和代さん(62)の写真に文章を添えた。
「帰るたびにわが家は、だんだん、草木におおわれていきます。ありがとう。そして、ごめんなさい。和代さんは、こころのなかでつぶやきます」
昨秋、関場さんは育てた野菜を青空市で販売するため、福島市を訪れていた。横ではいつものように豊田さんが撮影している。
関場さんは言った。
「感謝しています。故郷を思いながら避難生活を続ける我々を記録し、伝えてくれる。彼がいなければ、そんな苦悩も、世の中から忘れ去られてしまうから」
写真家がカメラで顔を隠して泣いていた。
三浦英之 2000年、朝日新聞に入社。南三陸駐在、アフリカ特派員などを経て、現在、南相馬支局員。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞を受賞。最新刊に新聞配達をしながら福島の帰還困難区域の現状を追った『白い土地 福島「帰還困難区域」とその周辺』と、震災直後に宮城県南三陸町で過ごした1年間を綴った『災害特派員』。
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