連載
#18 Busy Brain
小島慶子さんが憂慮する属性バイアス、「障害は個性」の落とし穴
「たいていはこうであろう」には、様々なバイアスがかかっています
40歳を過ぎてから軽度のADHD(注意欠如・多動症)と診断された小島慶子さん。自らを「不快なものに対する耐性が極めて低い」「物音に敏感で人一倍気が散りやすい」「なんて我の強い脳みそ!」ととらえる小島さんが語る、半生の脳内実況です!
今回は、「発達障害は個性」という表現が危険な理由、一人ひとりの特性が個性として尊重される社会のために必要な「多様性と包摂」についてお話します。
(これは個人的な経験を主観的に綴ったもので、全てのADHDの人がこのように物事を感じているわけではありません。人それぞれ困りごとや感じ方は異なります)
最近は、ニューロダイバーシティ(神経の多様性)といって、発達障害を脳の多様性の一つとして捉える動きが広がりつつあります。“普通の脳”と“出来損ないの脳”とに区分するのではなく、それぞれに“特性の異なる脳”として捉えるというものです。
世の中は大多数の人にとって過ごしやすいように設計されているので、そこにうまく適合しない人たちはみんなの足を引っ張る存在とみなされ、当人たちも自身の特性が生きていく上での障害になってしまいます。もし、今よりも学校や職場の「普通」の幅が広がれば、それまでは規格外扱いだった人にも居場所ができます。
特性に合った学習法や仕事に出合うことによって、弱みとされてきたものが強みになることもあるかもしれません。ニューロダイバーシティという考え方が全てを解決するわけではないですが、そうした視点に立てば発達障害に対する見方が違ってくるのではないかと思います。
障害の有無にかかわらず、自分の特性と環境の相性は大事ですよね。例えばなんでも規則正しくきちんと繰り返されるのが性(しょう)に合っている人は、テレビ業界のようなスケジュールが不規則で変化の多い職場は性に合わないかもしれません。逆に、事務作業や規律正しい生活が性に合わない人は、出勤時間が決まっていて細かいデスクワークの多い仕事は向いていないでしょう。
私の場合は後者で、たまたま自分に合った仕事につくことができたので、特性がプラスに働くことも少なくありませんでした。むしろこのちょっと凸凹の多い脳みそがあったからこそ、こなせた仕事もあったでしょう。
放送、出版、映画やネットメディアなど、多くの人にものを伝えたり表現したりすることに関わる世界で働く人たちには、他の職場では「変人」とか「使いづらい」などと言われてしまうかもしれないような、ある種の極端さのある人も少なくありません。また、それらの媒体に登場する芸能人、スポーツ選手、知識人や政財界人などの「有名人」は実に個性豊かで、いわゆる変わり者も多いのです。
私は働き始めた時からずっと、立場も職種も様々な「変わり者」たちの中に身を置いているので、自分のいる環境が凸凹に溢れた世界であることにしばらく気がつきませんでした。年齢を重ね、子育てや仕事を通じて全く違う環境で生きる人たちとの接点が増えるにつれ、世間知らずを痛感すると同時に、こんなに変化に富んだ職場は珍しいかもしれないと気づいたのです。
これまでなんとかやってこられたのは、変わっていることを気にする人が少ない、むしろ面白がることの多い環境だったからなのかもしれないと、巡り合わせに感謝しました。
もちろん、発達障害を持つ人の困りごとは環境さえ変えれば必ず解決するとか、必ず長所として生かすことができる、という単純な話ではありません。困りごとの内容や度合いは人それぞれで、中には日常生活を送るのにも大変な困難を伴う人もいます。
「発達障害は個性の一つ」とする言い方もありますが、私は今の日本の社会では、発達障害は個性ではなく、「障害」だと思っています。日本の現状で「それは障害ではなく個性だ」という言い方を安易に用いると、障害を持つ人に対する無理解や差別を矮小化し、困っている人の存在がかえって見えなくなってしまいます。
多くの人とは異なる特性を持つ人が生きていく上で困難を感じ、その特性が人生における「障害」になってしまうような現状を、同じ社会で暮らす人々がまずはきちんと認識することが必要です。その上で、現在の制度や価値観を変え、固定的な「普通」にみんなが合わせるのではなく、多くの違いに柔軟に対応しながらお互いが安心して暮らせる仕組みを作り上げる努力をしなくてはなりません。
それが実現したときに、ようやく「かつて発達障害と言われていたものは、今では個性の一つになりましたね」「困りごとがうんと少なくなって、自分の特性を個性だと思えるようになりました」と言えるようになるのではないかと思います。
一人ひとりの特性が個性として尊重される社会は、自分とはうんと異なる人と関わり合いながら生きていく社会ですから、そんなに簡単なものではありません。多様性と包摂、というのはそれだけの手間と労力をかけるつもりで取り組むものです。自分自身も変わる覚悟をした上で「障害は個性の一つですよね」というのならいいのですが、今は安易に「私は発達障害を差別したりしませんよ。だって障害は個性ですものね!」ということも少なくなく、気がかりです。大事なのは、口当たりの良いラベルを貼ることではなく、相手を知ろうとすることですから。
いちいち細かいことを言うなあ、と鬱陶しく感じるかもしれませんね。子どもの頃から私は、「それはそういうものだから」と何かをスルーすることが非常に苦手でした。数学のテストの解き方でも、世の中のならわしでも、オートマ運転ができないのです。毎度マニュアル運転です(といっても実際持っている運転免許はオートマですが)。場面ごとに一つ一つギアを入れ替えながら進みます。そうやって理解を積み上げてからでないと「こういうときはこう」が腹落ちしません。
「他の人がオートマ運転で、私はマニュアル運転のようなもの」という例えは、ASD(自閉スペクトラム症)当事者で言語聴覚士の村上由美さんが用いたものです。ASDの特徴の一つとして、相手の気持ちを読み取ることが苦手で、社会的なコミュニケーションに困難が生じやすいことが挙げられますが、村上さんは自らの障害の特性を理解して、他者とのコミュニケーションや生活の仕方に様々な工夫を凝らし、発達障害のある人と一般向けの発声指導の専門家になりました。彼女はそれを、例えて言うなら他の人がオートマ運転でスイスイと走るところを、マニュアル運転で一つ一つ理解して進んでいく感じだと話してくれました。
この話を聞いたときに、視界がパッと開けて謎解きの鍵をもらったような気持ちになりました。由美さんと私は診断名が異なりますが、私にも似たような感覚があったからです。この言葉は、自分の困りごとを理解する上でとても役に立ちました。
友達の会話に加わるときに、その場では誰がリーダーか、場の空気が和やかなのか緊張しているのか、自分が歓迎されているのかそうではないのかなどを、光の速さで察知できる人とそうでない人がいます。私は「見ればわかるでしょ?」ということが、時間をかけて一つ一つ確認しないとわかりませんでした。こんな感じです。
ええと、今みんなの話を聞いてたらこんなことを言いたくなっちゃったんだけど、私の頭の中の連想ゲームは誰にも見えていないから、いきなり言わないでおこう。今は我慢我慢。まずは観察しなくちゃ。なるほど、どうやらこの場ではあの子が一番力を持っているようだぞ。で、今しゃべっている子はリーダーの機嫌を損ねないように気を使っているようだな。で、あっちで黙っている子はリーダーをあまり好きではないのかもしれないな。私をジロジロ見ている子はなんか嫌な感じだから、用心しなくちゃいけないぞ。よし、ここではとりあえず話しかけられるまではニコニコして黙っていよう……という具合。
「人の輪の中に入ったらとりあえずギアを『N』に入れて、しばらくは黙って観察する」というオートマ運転ができるようになったのは、30代になってからです。
人の感情などにはわりと敏感で、さほど的外れではない気がするのですが、以前書いたように幼少期に家庭環境によって強いバイアスをかけられた結果、自分の直感を信じることができなくなってしまったのが大きな原因であるようにも思います。それに加えて衝動的に言葉を口にする傾向もあったものだから、子どもの頃は友達の顰蹙(ひんしゅく)を買ったり人を怒らせてしまったりすることもしばしばでした。
悩みながらたくさん失敗をしているうちにだんだんどう振る舞えばいいのかを学習し、40代に至って経験値が上がったせいか、今ではかなり自分の直感を信頼できるようになりました。深層学習とでも言えばいいのでしょうか、似たようなことを何度も何度も経験しているうちに「ああこれはあれね」と答えを出せるように脳みそが学習したようです。いちいち「こうでああだから、今はこうした方がいいな」などと確認せず、思考過程がブラックボックスに入っていても、出した答えを信頼できるようになったのです。
ただ、計算の結果出す答え、つまりどのように振る舞うか、どんな発言をするかの判断が一般的に「たいていはこうであろう」と推測されるものとは違っているので、「個性的」に見えることはあると思います。それは多くの場合、熟慮した上でのプロとしての判断や信条によるものです。
他の人が取らないリスクをあえて取る判断をした結果「普通はしない」言動をすることは、ままあります。わかりやすい例で言えば、テレビなどで男性との議論の場で反論するとか、質問するとか、こちらを黙らせようと捲(まく)し立てる人に屈しないで喋り続けるとか。そんな場面は数えるほどしかないのですが、その印象が強いようなので、よほど珍しい光景だったのでしょう。つまり男性の話をニコニコ受け止めてあげない女性を見ることが、日本の日常生活でいかに少ないかということでもあります。
「たいていはこうであろう」には、様々なバイアスがかかっています。「女性だからこうであろう」「元アナウンサーだからこうであろう」「芸能人だからこうであろう」などなど。それと私の言動がずれていて「個性的」に見えるのならば、私の脳みそではなくあなたの脳みその働きにどんな変数が掛け算になっているのかを考えてみるといいでしょう。なぜ自分にはそう見えるのか、を考えることは、無意識の偏見や思い込みを発見するチャンスです。
先程の「障害は個性」の落とし穴はここにもあります。ADHDがその人らしさの本質だと思うと「小島慶子が女らしくなくて個性的なのは、障害のせいなのだな」と思ってしまうかもしれませんが、私の脳はADHDという特性だけで機能しているわけではないので、行動原理をそれだけでは説明できません。もし私の話を個性的だと思ったなら、それはあなたが予測したものと私の言動との間にズレがあるからであって、個性の正体がADHDだからではないのです。
さて次回は、うまくいかない人間関係をなんとかするために具体的にどんな工夫をしたかの話をします。
小島慶子(こじま・けいこ)
エッセイスト。1972年、オーストラリア・パース生まれ。東京大学大学院情報学環客員研究員。近著に『曼荼羅家族 「もしかしてVERY失格! ?」完結編』(光文社)。共著『足をどかしてくれませんか。』(亜紀書房)が発売中。
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