お金と仕事
バブル横目に修行、震災後にコロナ…料理人が見た飲食業界の40年
自粛期間中に生まれた「宅配キット」が教えてくれた〝料理の本質〟
お金と仕事
自粛期間中に生まれた「宅配キット」が教えてくれた〝料理の本質〟
伊藤文彰さんは、40年間、料理の道一筋に歩んできました。大学中退後、実家のレストランに就職。バブルの波に乗れなかった90年代を経て、その後、やってきたレストランウェディングでは客層を広げ店舗を拡大します。東京にも進出して、順調に見えた矢先に起きた東日本大震災によるキャンセルの嵐。そして、現在、立ち向かっているのが新型コロナウイルスです。浮き沈みの中、伊藤シェフが見つけた料理の本質とは何か。その半生を聞きました。(ライター・安倍季実子)
伊藤文彰シェフは、ルヴェソンヴェール本郷店の料理長でありながら、京都に本店を置く株式会社円居の東日本事業部の代表と代表取締役専務を兼任している経営者シェフです。
現在は経営者としての仕事が多いため、京都と東京を行き来する毎日を送っています。そんな伊藤シェフの原点は家業にあったと言います。
「今から60年ほど前、京都大学のほど近くにできた『レストラン まどい』が僕の実家です。はじめはクラシックの流れる音楽喫茶でしたが、ホテル出身のシェフなどを招き、やがてレストランとなりました。幼い頃からフランス料理が身近にあったので、僕たち三兄弟がフレンチの道に進むのは、自然なことでした」
この道40年という伊藤シェフは、社会人になるとそのまま実家の経営する円居に就職しました。そして、若干26歳で新店舗のオーナーを務めることに。
「親父の代では、一時期3店舗にまで増えたのですが、いろいろあって僕たちが継ぐ頃には1店舗だけになっていました。僕が新店舗のオーナーになった頃は十分な資金があったわけでもなく、お店を回すだけで精一杯。『オーナーなんだから自分がしっかりしないと』という気持ちもあって、ガムシャラに働きました。一日中キッチンに立ち、営業が終わると慣れないパソコンと向き合って収支の計算をするなど、1~2年くらいは本当に苦労しました。やがて経営が落ち着いてくると、『他のお店はどうなんだろう?』という疑問がわいてきたんです。僕は、円居以外での修業経験がなかったので。そこで、『どうせ行くなら、本場がいいだろう』と思い、短期間の修業に出ました」
伊藤シェフが単身向かったのはフランス。そこでフランス料理の可能性を学び、後の経営に活かすことができたと言います。
「日本中が浮かれていた90年代のバブル期は、何度目かのフランス料理ブームが訪れていました。高級レストランが次々に誕生したり、何万円もするコースが人気を集めましたが、同時にビストロなどの気軽にフランス料理を楽しめる形態のお店も登場しました。僕たちのお店は、あまり気構えずに本場さながらのフランス料理をたくさんの人に食べていただくことを大切にしていたため、バブルの恩恵を受けることはできませんでした。しかし、うちのお店には、バブルが崩壊してから波がやってきたんです。売上重視の商売に走らずに、美味しいフランス料理を適正な価格で提供していたことが認められたのだと思います」
バブル崩壊後、円居が成長した理由は、レストランウェディングのブーム到来にもありました。
「今はもうなくなりましたが、かつて下鴨神社を鴨川沿いに少し下った場所に、文部科学省が運営する『御車(みくるま)会館』という建物がありました。とても年季の入った建物で、入っている飲食店は日本料理店だけでした。そこで、カンフル剤として洋食店を入れようとなったときに、京大の学生や教授なじみの店ということで、うちに白羽の矢が立ったのです。ありがたい話なので、すぐに引き受けて、1階に『ルヴェソンヴェール』というお店を出しました」
チャンスをもらった形でしたが、個人の店ならではの苦労もあったと言います。
「改装作業には苦労しましたね。お金がないので、店舗作りのほとんどを自分たちの手でやったんです。人の出入りがほとんどなくて、荒れ果ててしまった庭が、特にやっかいでした。営業がスタートしてからも、時間を見つけては庭づくりに精を出していました。その頃来ていたお客さんの中には、僕のことをシェフだとは思わずに庭師だと思っていた人もいるかもしれません(笑)」
出店は客層の広がりを生み、経営規模を大きくするきっかけになったそうです。
「庭には、プロヴァンス風のレンガを敷き、植物を植え、鴨川に抜けるバージンロードを設置しました。さらに、ウッドデッキやラティスを組み立て、挙式できるスペースも作って、牧師さんも呼んで、実にたくさんのウェディングを行いました。それまでは、お店の立地的に京大の学生や教授がメインだったのですが、御車会館にお店を構えたことで、一気に一般の方もいらっしゃるようになりました。そして、いろいろな縁ができ、ほかの場所からも声をかけられるようになって、少しずつ京都市内で店舗が増えていきました」
「現在、本郷店が入っている『フォーレスト本郷』も、実は文部科学省の建物です。京大と東大は親睦が深いようで、この建物の建て替え時に声をかけていただき、出店店舗として立候補して今になります。2000年を過ぎる頃には、レストラン経営のノウハウは一通り知っていましたから、東京進出はスムーズでしたね。そして、『御車会館』や『フォーレスト本郷』の時と同じように、大学関係の方から声をかけていただき、駒場店や南大沢店が誕生しました」
堅実な仕事が新しい縁を呼び、順調に東京での店舗数も増えていっている時に襲ってきたのが、3.11の東日本大震災でした。
「ルヴェソンヴェールとしては、この時に初めて大きな壁にぶち当たりました。地震が起こったのは、コロナと同じ3月。この時期は歓送迎会にウェディングなど、通常の店舗営業に加えて、とにかく宴会が多い時期なのです。本来なら大きな稼ぎ月なのですが、地震が起こったことで宴会の予約がすべてキャンセルになりました。国や都からの補助金などの支援もなかったので、この時は耐えるしかありませんでしたね。半年近くたった頃から宴会の予約が入るようになり、少しずつ以前の状態に戻りはじめました」
「耐えるしかなかった」という東日本大震災を乗り切った伊藤シェフ。忙しくも充実した毎日を取り戻しました。しかし、2020年を迎えると新型コロナウイルスの感染拡大のニュースが世間を騒がすようになります。
「年明けから、テレビニュースで『コロナ、コロナ』と騒いでいましたが、はじめの頃は実感がなく、おおげさなのではないかとすら思っていました。しかし、3月に入って徐々に事態が深刻化していき、ついに東京都知事による外出自粛要請が出されました。ここで非常にまずい状態なのだと感じましたね。すぐに東京・京都にある店舗を順に休業にしていき、4月頭には全店舗が休業となりました」
東日本大震災を上回るダメージを覚悟しながら、伊藤シェフは「その先」を見据えた行動を考えるようになったと言います。
「うちの会社は3月決算ということもあり、大きな打撃を受けました。正直な所、今のタイミングで来るのはやめてくれよと思いましたが、同時に、東日本大震災よりも大事かもしれないと思いました。経営者として、何としてでも雇用は守り切らないといけない。とは言え、社会の動きや今後の見通しがつかないわけには、どうにも身動きがとれないということで、すぐに情報収集に当たりました。申請できる助成金や補助金について、今後の社会の動きはどうなるのか、我々の営業形態はどうしたらいいのかなど、休業に入ってからすぐの頃は、とにかく考えることがたくさんありました」
経営を維持するための対応に追われて、コロナ前よりも多忙な日々を送る中でも、不思議と大きな焦りはなかったそうです。
「この世界に入って40年以上経っていますから、東日本大震災を含めて大小様々な壁にぶつかってきました。その度に乗り越えてきましたから、コロナによる経営危機も『何とかして乗り越えよう』という一心でした。そして、レストランの語源のレストレ(元気を回復させる)にあるように、人を元気にすることを忘れてはいけないという想いもあって、この機会に宅配キットの実現に踏み切りました」
自粛要請中に生まれた『宅配キット』。実は、7~8年前に一度考案されていた商品でした。
「高齢化社会になる中で、フランス料理を食べたくても食べに行けない人が増えていくだろうなという考えから、前々からコース一式の食材をまとめたセットの販売を考案していたんです。思いついたときは、我ながらいいアイデアだと思ったのですが、忙しさがそれを許さず、なかなか実現できないでいました。なので、休業に入ってすぐに宅配キットの商品化に取り掛かりました。今考えると、コロナによる休業という状況が、ポンっと背中を押してくれたのでしょう」
アイデア自体はすでにあったこともあり、「やる」と決めてからは素早く実行に移します。
「頭の中で、宅配キットの草案はほぼ完成していたので、すぐに社員に相談して施策実験に移りました。この時点でメニューも決まっていましたし、宅配おせちのノウハウもあったので、料理に関しての不安はほぼありませんでした。ポスターやショッピングサイト作り、宅配キットの調理法を伝える動画作りに関しても、それぞれ社内に得意とする人物がいたので、こちらもスムーズでした。また、すべての工程を社内で行うことで、『安全・安心な食材を使った手作り』であることと『必要以上のコストを省いた価格』での提供が実現できました」
心配だったのは、宅配キットをそのままの状態で、お客さんの元に届けられるか、ということ。
「いくら万全の状態で商品を送り出したとしても、配送中のアクシデントで中身が崩れてしまったりしたら台無しです。なので、梱包材にはとてもこだわりましたね」
お客さんの手元に商品がきちんと届くのかを調べるため、サンプルを作って京都の家族や社員に送ってテスト。中身が崩れていないことを確認して、宅配キットが完成しました。
宅配キットは、スタートからすぐに人気に火がつき、予想を超える注文数を記録しました。その一方で、突然の宅配キット販売にとまどう社員もいたといいます。
「長くお店をやっていると、そこそこの数の常連さんができるものです。そういった方々からの注文が入り、毎日バタバタでした。これまでやってきた店舗営業とは勝手が違うことで、社員たちもはじめは慣れない作業に苦戦していました。しかし、私たちはフランス料理でお客様を元気にすることが仕事です。料理の届け方が違うだけで、目的は変わりません。次々に入る注文をこなしていくうちに、とまどっていた社員たちも少しずつ慣れていきました」
コロナの混乱の中で形となった「宅配キット」ですが、新しい生活様式になった社会と非常にマッチしていることに驚いたと言います。
「本来は、自宅でフランス料理を食べたい高齢者のために考案しましたが、色々なシーンで楽しんでいただけることに気づきした。還暦のお祝いや自宅で手軽に本格的なフランス料理を食べたいという方はもちろん、結婚前のオンライン顔合わせの際に食べたいという方、イベントの景品として送りたいという方など、実に様々なケースがありました」
「宅配キット」の成功は、伊藤シェフにとって、料理の新たな魅力を発見する機会になりました。
「評判は軒並み好評で、『美味しいフランス料理をありがとう』という声や『子どもが楽しそうに盛り付けをしてくれた』という声をいただきました。長い自宅時間の中で、楽しいスパイスとなったようです。また、フランス料理ではスーパーにあまり並ばない、珍しい食材を使うこともあるので、食育の一環にもなったようです」
「少しずつ、コロナ以前の生活を取り戻しつつありますが、まだまだ油断できない状況が続いています。私個人のことで言うと、コロナのおかげで経営者としての仕事が増えて、引退時期が延びてしまいました(笑)。しかし、やりたいことは何でも挑戦してみようという勇気をもらいました。変化を嘆くのではなく、それに柔軟に対応して、自分にできることを探し、一生懸命それに取り組むことの大切さを学んだ気がします」
インタビュー中、伊藤シェフは「コロナは商品化への後押しをしただけ」と笑いました。これまでに得たノウハウを組み合わせて、実現するべくして実現しただけなのだと言います。そして、宅配キットの成功で、「今までリアルでやっていたイベントのオンライン開催も夢じゃなくなった」と、次の一手も考えていました。
経営者として守りを固めると同時に、シェフとしてできることを模索して、それに打ち込んできたから「今をどうしのぐか」ではなく、「次はどうするべきか」を考えられるのでしょう。
変化に対応して、自分にあったスタイルを見つけることは、飲食業界だけに限らず、どの業界・業種にも言えることです。そして、自分にあったスタイルを見つけることは早ければ早いほどいい。
料理の本質を見失わず、新たな挑戦を決断できるのは、40年間、料理の道を突き詰めたからなのかもしれません。
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