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「嵐」結成21年の朝届いたファンレター 差出人は7年前に他界した母

【私と息子をつなげてくれてありがとう】

7年前に他界した母がつづったファンレター
7年前に他界した母がつづったファンレター 出典: 一止さんのツイッター

目次

「嵐さんへ 2013.12.15の母より」。人気グループ「嵐」が結成から21年を迎えた9月15日の朝、高校1年生の「一止」さんに、父からある手紙が手渡されました。差出人は約7年前に他界した母。それは、死の直前に母が嵐に書いたファンレターでした。手紙の内容はツイッターで公開されると、大きな反響を呼びました。「僕にとっても意味のある手紙でした」という一止さんに、話を聞きました。

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「お母さん、かっこよすぎる」

話題になったのは、一止さん(@ichito_arashi5)が9月15日の朝に、ツイッターに投稿した4枚の便せんでした。

一止さんは、こんなコメントとともに写真を投稿しました。
「2020.9.15.嵐さんへ→ 2013.12.15の母より。朝から泣かされました。7年後の嵐さんに手紙書くなんて、活きすぎる笑」

投稿には、「号泣しました」「お母さん、かっこよすぎる」「とても心が温まった」などのコメントが寄せられ、いいねは1.3万件以上になりました。

一止さんに「お話を伺いたい」と連絡をしたところ、メッセージのやりとりで答えていただけることになりました。
手紙は、ただのファンレターではなく、母・光さんと、一止さんの大切な秘密について書かれたものでした。

「この手紙が読まれるころ、私は」

手紙は丁寧な字で、こんな言葉から始まります。

【2020年 9月15日 嵐の皆さんへ

21年目おめでとうございます。この手紙が読まれるころ、私はもうこの世にいないでしょう。なんて、ありきたりな書き出ししか思いつきません(笑)

嵐さんに感謝とこれからの思いを伝えたく、今こうして書き残しています】

一止さんは、9月15日朝、起きた時に、父からこの手紙を手渡されたそうです。

手紙を書いた日付は「2013年12月15日」。一止さんの母、光さんはこのとき、31歳。子宮がんを再発していました。

一止さんは「これまでも、僕の誕生日に、生前、母が書き残してくれてた手紙をもらうことがありました。毎年、母からの手紙を楽しみにしていたんです。でもまさか、(嵐の21年目への手紙があるとは思わず)ただただ驚きました」と言います。

母・光さんからの手紙は、こう続いていました。

【私は幼い頃、児童養護施設で育ちました。ずっと一人で辛くて、寂しくて、目の前がずっと真っ暗でした】

光さんが独り立ちのため、施設を出る直前、そんな光さんに、施設の先生が買って聞かせてくれたのが嵐のCD『感謝カンゲキ雨嵐』でした。

「Smile again 泣きながら 生まれてきた僕たちは たぶんピンチに強い」

この歌詞を聴いたとき、光さんは涙が止まらなくなりました。

【虐待を受けていたって、施設で育っていたって、みんな泣きながら生まれてきた同じ人間。強く生きられるかどうかは、自分次第なんだと思うことができました】

【自分の子供ができたら精一杯の愛をそそいで、笑顔の絶えない家庭を作って、強く生きて、大きくなったら一緒に嵐さんを応援しよう】  

そんな夢を抱いていた光さんに、病魔が襲います。2004年に子宮全摘出の手術を受け、妊娠は諦めざるを得なくなりました。

手紙は、一止さんが初めて知る真実が記されていました。

【私は、同じような思いをしている子に愛をあげたい。家族の素晴らしさを教えてあげたい。そう思って息子を養護施設から引き取りました。まだ、事実は打ち明けていません。この手紙を読んで知ることになるでしょう】

光さんの手紙のアップ
光さんの手紙のアップ

「少しの予感が、確信に変わった」

光さんが一止さんを家族に迎えたのは、一止さんがまだ3歳だった時だそうです。

手紙を読みながら、一止さんには幼い頃の記憶とつながる部分があり、「少しの予感が、確信に変わった感じでした」と、驚きはしなかったといいます。

「幼いころに、ベランダに出されていたことや、大人が家に入ってくる映像(今思えば、助けてくれた方たち)などが断片的に記憶に残っていたんです。母や父は優しい人なので、そんなことするわけもないし、どこかでそういうことを経験していたのかなって」

実の両親ではなかったという事実も、「血がつながっていないからと言って、今まで三人で過ごした日々は変わらないと思えて、しっかり受け止められました」と言います。

最後で最高の思い出

手紙を書いた2013年12月15日は、光さんにとって、大切な日でした。

【今日、初めて息子を連れて、LOVEのコンサートに行ってきました。
行く前は『僕、恥ずかしいからお母さん一人で行ってきて』なんて言っていたのに、帰ってきたら『お母さん、また行こうね!あんなにかっこいい人たち初めて見た!約束だよ!』と大はしゃぎ(笑)】

【最後にこんな楽しい、最高に素敵な思い出を作らせてくれた嵐さんに感謝の気持ちしかありません】

2013年12月15日、「ARASHI Live Tour 2013 “LOVE”」東京ドーム公演。一止さんは、このときのことをはっきりと覚えていました。
当時、一止さんは9歳、小学校3年生。母は入院先の病院からライブに行きました。「(当時は)僕は知らなかったんですけど、結構きつい状態だったみたいで、医師に少し無理を言って行く許可をもらったそうです」

一止さんは引きずられるような勢いで連れて行かれたといいます。「手紙にもある通り、僕自身は乗り気じゃなかったんです。なんか、小学生の男の子でジャニーズが好きって、当時の僕にとっては、こっぱずかしくて」

体力的に相当きつい状態にあるはずの母。ところが、ライブが始まったとたん、一止さんはその変化に目を疑いました。

「嵐さんが出てきた瞬間に、母は泣いて、満面の笑みで、見たこともない、すごく幸せそうな顔になったんです。嵐さんって、こんなに母のことを幸せにできるんだ、こんなにもたくさんの人を笑顔と幸せで包み込めるんだと思って、感動しました」

一止さんは、そんな嵐の姿に憧れを抱きました。

ライブ中、一止さんは前のめりで、母・光さんは、少し座ったりしながらも、ずっとペンライトを振り続けていました。

このライブから10日後、12月25日、母・光さんは息を引き取りました。

嵐のグッズで埋まった一止さんの部屋の棚
嵐のグッズで埋まった一止さんの部屋の棚

泣き虫の我が子へ

手紙の後半は、光さんの一止さんへの思いが溢れていました。

【息子は泣き虫で、何回も泣いて帰ってくることがありました。(中略)きっと私が亡くなってしまったら、泣いて泣いてずっと立ち直れなくなってしまうような気がしています。

息子には、ずっと笑っていてほしいです。血がつながっていなくても、私の分まで生きてほしいです。 だから息子がくじけそうな時、泣いている時、息子を助けてあげてください。お願いします。】


嵐へのファンレターは、一止さんへのエールに変わっていました。

光さんは、大好きな歌詞を一止さんに贈っています。

【「小さな花でいいじゃない 負けるな」(「ランナウェイ・トレイン」 より)】

【 自分らしく、笑顔を絶やさず、お父さんと、嵐さんと今を大切に生きていってください。血がつながっていなくても、私はあなたのお母さんです。3人で過ごした日々を誇りに思い続けてください】

最後は感謝の言葉を綴っていました。

【嵐さん。私は天国でもずっと応援しています】
【私を助けてくれてありがとう】
【私と息子をつなげてくれてありがとう】

「僕と母をつないでくれて」

光さんが亡くなったとき、実感がなく、ただ呆然としていたという一止さん。
立ち直れない暗い気持ちの中にいた一止さんに、父は、生前に光さんが残したボイスレコーダーを聞かせたそうです。
「どんなにつらくても、どんなに苦しくても、嵐さんは必ず助けてくれる。もしお母さんを思い出して苦しくなってしまうなら、お母さんの部屋に行って、嵐さんの歌を聴きなさい」

そのときから、つらい時は嵐の楽曲が心の支えになりました。

母と行った最後のライブで聞いて二人で号泣した『愛を歌おう』。母がずっとそばにいてくれるように感じます。
『マイガール』、『夜空への手紙』・・・・心に響く歌の中には、母の姿を感じました。

大野智さんの作品展にあわせて開催された企画に行った。「僕が写っている最近行ったフリスタカフェの写真です」=一止さん提供
大野智さんの作品展にあわせて開催された企画に行った。「僕が写っている最近行ったフリスタカフェの写真です」=一止さん提供

一止さんは、「嵐さんは僕の光です。母が亡くなってから真っ暗闇にいた僕を助け出してくれました。母を幸せにしてくれて、母を暗闇から救い出してくれて、母とのかけがえのない思い出をくれて、僕と母をつないでくれて本当にありがとうございます」と感謝の思いをつづりました。

母・光さんへの思いも書いてくれました。「一緒にコンサートに行ったあの日から、嵐さんのこと、母の分までずっと応援しているよ。これからもお母さんと過ごした日々、一生忘れないよ。手紙を残してくれて、ありがとう」

21年目への思い

ファンレターは、ジャニーズ事務所に送ることも考えましたが、一止さんに宛てたメッセージもあったので、「まだ手元に置いておきたい」と踏み切れませんでした。

とはいえ、「母の思いを僕らだけで終わらせるのだけは避けたい」と、父に相談し、21年目に母が宛てた嵐への愛や感謝が、嵐や、ほかのファンにも伝わってほしいと、ツイッターに投稿したそうです。

「本当に想像を超えるたくさんの方に母の手紙が伝わり、うれしさとありがたい気持ちでいっぱいです」

20年ではなく、21年目という年に、母があてたファンレター。父に真意を聞いたところ、「21年目は新たなスタートで、ここから一つずつ歩んでいくと感じていたから」と聞きました。そして、一止さんが高校入学という節目だったこともあり、21年目を選んだそうです。

奇しくも、21年を祝った2020年末で、嵐は活動休止を発表しています。

一止さんは「嵐さんへの希望を語るのは恐れ多いですけど、どんな形であろうと僕は5人がずっと笑顔でいてくれたらいいなと思います」と思いをつづります。

「そして、いつか5人の笑顔をまた見れたらいいなと思います。たくさん助けてもらったからこそ、いま僕にできるのは、5人が安心して休止できて、帰ってくるときも、安心して帰ってこられる場所を作っておくことぐらいです」

嵐デビュー20周年のアニバーサリーツアー「5×20のコンサートに行った時のものです」=一止さん提供
嵐デビュー20周年のアニバーサリーツアー「5×20のコンサートに行った時のものです」=一止さん提供

記事の中で引用した手紙では「息子」と表現した部分は、便箋の画像では「ハート」のスタンプで隠されたり、空白になったままだったりしました。

光さんは、一止さんを児童養護施設から引き取った時、一止さんの名前を変えたそうです。元の名前には、一止さんの実の親の漢字が使われていたこと、虐待を受けていたことがあり、「過去は忘れて、この家で新しい人生を歩んでいってほしい」と改名しました。

でも、ファンレターには、どちらの名前を書くべきか悩んで、ぎりぎりまで空欄にしていたそうで、ところどころ、埋め忘れたままだったそうです。「母らしくて、笑っちゃう」
4枚の手紙は、一止さんの「宝箱みたいなところ」にしまってあるといいます。

一止さんには夢があるといいます。
「母や僕のように児童養護施設に行く子たちを少しでも減らしたい」「児童養護施設にきた子たちのことは、救えるようになりたいし、笑顔にできるようにしたい。家族のすばらしさ、あたたかさを伝えていけたらいいなと思っています」「僕を救ってくれた嵐さんたちのように」

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