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内海桂子が残した「宝物」19歳で妊娠、満州慰問…波乱の中のプロ意識
駆け出しの「ナイツ」を連れて行った鰻の老舗
2020年8月22日、女性漫才師で漫才協会名誉会長の内海桂子さんが多臓器不全のため、97歳で天国へと旅立った。1938年に漫才師として初舞台を踏み、戦時中は外地慰問にも出向いた。戦後は団子を売って歩き、ホステスとして働き、一回り以上離れた相方・好江さんとコンビを組んで女流漫才師の頂点に立った。時代に翻弄(ほんろう)されながら、波乱万丈の人生を送った桂子さんの軌跡をたどる。(ライター・鈴木旭)※以下敬称略
浅草の“生き字引”として知られる内海桂子だが、実は千葉県の銚子生まれ。本人さえ、20歳の頃まで浅草生まれだと信じて疑わなかった。
この事実に気づいたのは、満州(現・中国東北部)への戦地慰問にあたり、必要な書類を揃えるタイミングだった。浅草区役所から受け取った戸籍抄本には「銚子生まれ」とある。しかも、父親の名前は空欄。つまり、桂子は私生児だった。
程なく母親を問い詰めると、バツの悪そうな顔で「駆け落ちしたのよ」と口を開いた。その時、母親は三番目の夫と一緒だった。誕生日すら実際の日付として登録されておらず、届けの日付はその翌年になっていた。(正しい誕生日は大正11年9月12日、戸籍上は大正12年1月12日)
著書『桂子八十歳の腹づつみ』(東京新聞出版局)の中で「いい加減なものです」とこぼしているが、桂子がしっかり者に育ったのは家庭環境によるところが大きいのかもしれない。
桂子の芸事に対する興味は、小学校3年生の三学期から「年季奉公」に出たタイミングで湧き上がった。
奉公に出た理由は、桂子が「どこにも居場所がない」と感じていたからだった。母親が三番目の夫の子を宿すと、桂子は新大久保にある知人にあずけられた。学校に通うこともできず、マッチのレッテルを張らされたり、サンドウィッチマンをやらされたりする日々が続き、やり切れない思いが募っていたのだ。
母親に「奉公に出るよ」と伝えたところ、間もなく桂庵(今でいう私設の職業紹介所)の紹介を受け、神田錦町にある老舗蕎麦屋「更科」で子守奉公をすることになった。
当時の神田は、オシャレな店が並ぶハイカラな街。奉公をしていた店の前に「河合キネマ」という活動写真館(今でいう映画館)があり、店の坊ちゃんをそそのかしては、よくそこに入り込んだ。桂子は活弁士(無声映画の上映中に内容を解説する者)やお囃子に興味津々で、店の番頭が探しにきても客の足元に隠れて見続けた。
5年を予定していた年季奉公は、1年半ほどで終わった。店の旦那が、幼すぎる桂子を気遣ってのことだった。南千住の家に戻ると、母親から「芸は身を助くというから、三味線と踊りを習ったらいい」と促され、芸人修業の日々が始まった。
しばらくすると、高砂家とし松が地方巡業の一行に加わってくれと頼みにきた。その巡業が終わると、今度はとし松の妻が妊娠したために漫才コンビを組んでほしいという。桂子はこれを受け入れ、とし松の妻の芸名・雀家〆子の名を引き継いで漫才師として活動することになる。
初舞台は1938年7月。息の合った掛け合いを見せ、1年後には旅巡業に出ることになった。
3年経った頃、とし松の子を妊娠。桂子が19歳の時だった。必然的にとし松の妻と揉め、コンビを解消することになる。雀家〆子の名前を返上し、1941年に「遊芸鑑札許可」を取得して、三枡家好子と名乗った。当時、芸人として活動するには鑑札が必要だったのだ。
戦時中は、満州、河北省の北支関東軍へと2度の戦地慰問にも出向いた。
1945年8月15日に終戦。敗戦国となった日本で、桂子は乳飲み子を連れて農村慰問に出掛けたり、吉原(東京都台東区千束)で団子売りをしたりして生計を立てた。内海好江と組むまで、漫才の相方は10人ほど替わった。その中の一人、林家染芳(後の林正二郎)と事実婚の状態となるも、夫がヒロポン(覚せい剤の一種)中毒になって離別。女手一つで子を育てた。
戦後の復興で餅菓子屋、お汁粉屋といった店が次々と誕生すると、桂子は団子売りを辞めてキャバレー「富士荘」のホステスとして働き始める。ここで、店のマネージャーから「桂子」という源氏名を授かった。楽器を弾く3人組を結成し、歌や踊り、三味線を披露したところ大変な評判を呼び、“浅草のお桂ちゃん”と人気者になった。
1949年頃、ようやく浅草の劇場が活気を取り戻す。桂子自身、子どもが大きくなっていたため、そろそろ舞台に上がろうかと考えていた。そんな折、「大江笙子の相棒が、お嫁にいっちゃうんで困ってる」と声が掛かる。漫才師として復帰するも、しばらくすると、なんの連絡もなく笙子は妹と漫才コンビを組んでいた。その代わりとして紹介を受けたのが、夫婦漫才「荒川小芳・林家染寿」の娘である好江だった。
当時、好江は14歳。桂子とは、一回り以上も違う相方だった。一度は断るも、好江は桂子以外の人間とコンビを組もうとしないという。桂子にしても、相方は必要だった。どうしたものかと知人の占い師に相談したところ、「この娘(好江)となら生涯やれる」とのお告げを受け、コンビ結成の腹を決めた。
もともと好江は「荒川好江」と名乗っていたが、心機一転の意味を込めて揃って「内海」の亭号に変えた。かねてより芸能の世界は、収入の変動が激しいことから“水商売”と呼ばれている。そのため、桂子は笙子と浅草花月劇場に出演した後から「内海桂子」と名乗り、水にかかわる亭号をつけていたのだ。
1950年当時、並木一路と組んで人気を博した内海突破がいるが、直接的には関係がなかった。しかし、桂子の義父が突破を見て「あの人は偉くなるよ」と惚れ込んでいたのは事実であり、その記憶がどこかにあった可能性も考えられる。
ちなみに「内海」を名乗るにあたって、突破からの承諾は得ている。後になって内海桂子・好江の人気が出ると、突破は愛弟子のように桂子をかわいがった。(上記はすべて内海桂子著『桂子八十歳の腹づつみ』(東京新聞出版局)をもとに構成)
内海桂子・好江の活動がスタートしたのは1950年。桂子は、なにかと経験の浅かった好江に厳しく指導した。相方であるのと同時に、師弟関係という間柄でもあったからだ。
1956年からスタートした「NHK新人漫才コンクール」では猛稽古をして挑んだものの、結果がふるわず3回連続で優勝を逃す。「おまえがダメだから落ちたんだ」と桂子が叱ると、あまりのショックに好江は服薬自殺を図った。幸い一命を取りとめ、1957年に行われた第4回大会では念願の優勝。後に桂子は、「好江さんも血のにじむような努力をしたはず」と、相方の功績をたたえている。
以降、漫才師では初となる芸術選奨文部大臣賞を受賞するなど、数々の名誉ある賞を受賞。その一方で、バラエティー番組にも出演。事務所の後輩であるウッチャンナンチャン、同世代のダウンタウンなど若手芸人とも共演し、歯切れのよい物言いで“厳しくもシャレのわかる粋な師匠”として知られることになった。
1997年に相方・好江が胃がんのため他界。48年間苦楽をともにした好江の死を知り、きっと桂子も悲嘆にくれたことだろう。しかし、そんな素振りは見せず、三味線を手に舞台に立ち続けた。翌1998年には漫才教団(後の漫才協会)の第5代会長に就任。ロケット団、ナイツなど若手育成にも尽力した。
また寄席やイベントで、若手芸人やスタッフを相手に即興で漫才を披露することもあった。桂子の頭には、常に好江の存在があったのかもしれない。
2016年末にお笑いコンビ・ナイツと共演した舞台で、桂子の足元がふらついてヒヤリとする場面があった。90歳を超え、体は確実に衰えていた。以降は、椅子に座ってのパフォーマンスが目立ち始める。
翌2017年には自宅前で転倒し、大腿骨の付け根部分を骨折。ボルトで固定し、1カ月半におよぶ入院生活を余儀なくなれた。昨年2019年の夏頃に脳出血で入院し、一時期は40kgくらいまで体重が落ちた。それでも懸命にリハビリに励み、努力の甲斐あって回復の兆しを見せていた。
ゆかりの深い浅草東洋館での最後の舞台は、2020年1月19日。その約7カ月後、8月22日に多臓器不全のため亡くなった。97歳の大往生。生粋の浅草芸人だった。
桂子の弟子としても知られているナイツ。2002年に漫才協会入りし、現在、塙宣之は副会長を、土屋伸之は常任理事を務めている。
しかし、率先して漫才協会に入ったわけではない。同世代の若手芸人と同じくテレビでの活躍を目指していたが、所属事務所の会長から「浅草でスターを育てたい」と言われてやむなく加入したのだ。この件について、2人は様々なメディアで「もうテレビに出られない(と絶望した)」と当時を振り返っている。
ところが、浅草の演芸文化こそがナイツの武器になっていく。漫才協会に入って間もなく桂子の弟子になると、2003年に漫才新人大賞を獲得し結果を残す。2008年には、お笑いホープ大賞、NHK新人演芸大賞を受賞。同年から2010年まで3年連続でM-1グランプリの決勝に進出するなど、コンビの知名度は全国区となっていった。
バラエティー番組では浅草で活動する師匠のエピソードを紹介するなど、ナイツの芸風に“浅草”は欠かせない要素として定着する。2014年7月には、『水曜日のダウンタウン』(TBS系)で師匠の桂子とともにプレゼンターとして出演した。
漫才に対する考え方という部分でも、桂子はナイツに影響を与えている。
M-1グランプリの決勝に出場して以降、ナイツは“正統派漫才”と呼ばれることが多くなった。しかし、ひたすら塙がボケ続けるナイツの「ヤホー漫才」は、キャッチボールをするように息の合った掛け合いで笑いをとる正統派とは一線を画している。
この点について塙は、2018年5月に放送された『SWITCHインタビュー 達人達』(NHK Eテレ)の中で、「10年経つと正統派漫才って言われるようになるんですよ」「結局、普通のことで売れた人ってたぶん一人もいなくて。(裸芸の)アキラ100%も、2~3年後には正統派みたいになりますよ」と分析。
土屋はこれに続けて、「桂子師匠の時代はもっとすごかったみたいですからね。いきなり脱ぎ出してボクシングやり始めたりとか、トンボを切ったり(宙返りする)とか。そういう漫才とかがめちゃくちゃいる中で、たまたまこういうの(しゃべくり漫才)が残ってるっていう」「伝統って気にし出すと、すぐ行き詰まる」と補足する。
さらに塙は「鰻のタレも新しく変えるじゃないですか。(でも、)ずっと同じタレじゃないですか。そういう感じでやってますよ。ちょっと間を変えたりとか言い方を変えたり、ちょっとこう“違うボケ”をタレの中に入れて」「(観客は)あんまり気づかないかもしれないけど、こっちは継ぎ足し、継ぎ足しで。新しいことをやんないと、やっぱり腐っちゃう」と、自分たちコンビの漫才を浅草の名物でもある鰻のタレに例えている。
正月になると、桂子は駆け出し時代のナイツを浅草にある鰻の老舗店「やっ古」に連れて行ったそうだ。それはナイツにとって最高のご褒美であると同時に、「漫才の“肝”」を着想する起点となったに違いない。
桂子と言えば、2010年から始めたツイッターも大きな話題となった。フォロワーは49万人。1999年に結婚した夫でマネージャーの成田常也が桂子の口述をツイートしていた。
説得力のある言葉で、ネットニュースで取り上げられることも少なくなかった。とくに印象深かったのが、2014年6月に東京都議会で起きたセクハラ発言問題に対する桂子のツイートだ。
みんなの党会派の塩村文夏(あやか)都議(当時)が、女性の妊娠・出産をめぐる問題で一般質問に立った際、「早く結婚した方がいい」などとヤジを受けた。都議会には一千件を超える批判が殺到。ヤジを飛ばした鈴木章浩都議が都議会自民党を離脱したうえ、都庁で塩村都議に謝罪する騒動に発展した。
桂子はこの件について「事の背景は知らないが男女同権の昨今その場で『今のヤジは誰が言った』と女都議が切り返せば話は早いしその場で事は済む。自分で出来ないならその場で議長に要請すればいい。プロ同士が戦っている世界の話はまずその世界で解決すべき」とツイートした。
差別問題に対し、桂子は「プロ同士」という目線で世相を斬った。男女の問題でもなく、どんなヤジを飛ばされたかでもない。同じプロなら、その場で言い返して解決すべきという実に桂子らしい見解だった。
この考え方は、なにかに頼ることなく自力で生きた、桂子の生き様そのものだという気がする。
小学校3年生で中退し、年季奉公に出向いたこと。妻のいるとし松の子を身ごもり、女手一つで育てたこと。ヒロポン中毒になった染芳に見切りをつけ、吉原で団子を売り、ホステスとして働いて生計を立てたこと。一回り以上違う好江とコンビを組み、厳しく指導した甲斐あって女流漫才師の頂点に立ったこと――。
あらゆるリスクを恐れず、すべてを自分自身の意思で決める。生まれてこの方、桂子はプロ意識が高いのだ。あらゆる多様性が叫ばれる昨今だからこそ、桂子のような“個人のプロ意識”が逆に存在感を持つのかもしれない。
晩年、桂子はナイツの2人を「私の宝物」と語っている。プロ野球界のレジェンド、故・野村克也の名言に「三流は金を残し、二流は名を残し、一流は人を残す」というものがあるが、まさに桂子は浅草という地に芸人という宝を残した。
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