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お金と仕事

ユース1期生からJリーガー、戦力外でも続けたA4ノートのPDCA

元清水エスパルス谷川さんのセカンドキャリア

J1清水エスパルス時代の谷川烈さん=©︎S-PULSE
J1清水エスパルス時代の谷川烈さん=©︎S-PULSE

目次

Jリーグ発足の1993年。清水エスパルスのジュニアユース1期生に抜擢(ばってき)され、高校卒業後はJ1清水エスパルスと契約をした谷川烈さん(40)。引退後、ビジネスの世界でいかされたのは、プレーのレベルを高めるために続けた「振り返り」の習慣でした。2回の戦力外通告を受けた後、大学進学をし、「新卒」で大手企業に就職。将来は起業も考えているといいます。多様な働き方が増えてきた時代、谷川さんにセカンドキャリアの築き方を聞きました。(ライター・小野ヒデコ)

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谷川烈(たにかわ・つよし)
1980年4月、静岡県生まれ。県立静岡高等学校卒業後、99年から2002年まで日本プロサッカーリーグ1部(J1)の清水エスパルスと契約。その後、J2ヴァンフォーレ甲府や米国独立リーグUSLのニューハンプシャー・ファントムス、J2水戸ホーリーホックでプレーし、J1、J2で通算30試合、2得点の実績を残す。2005年にプロ選手を引退。その後、法政大学キャリアデザイン学部への進学。卒業後、2009年にブリヂストン入社。海外営業を経て、2015年にメディアやデジタル広告事業を繰り広げるグライダーアソシエイツに転職。
 
元J1清水エスパルス選手の谷川烈さん。大学卒業後、ブリヂストンに入社し、2015年にグライダーアソシエイツに転職。
元J1清水エスパルス選手の谷川烈さん。大学卒業後、ブリヂストンに入社し、2015年にグライダーアソシエイツに転職。

Jリーグ発足時、ジュニアユースに抜擢

<中学生で清水エスパルスのジュニアユースに。Jリーグが常に近くにあった>

出身はサッカーの盛んな静岡県です。小さい頃の写真を見返すと、小学生前からサッカーボールを蹴っていて、気がついたらサッカーをしていました。

本格的にサッカーを始めたのは小学生時代。Jリーグが発足した1993年、中学1年で1期生として清水エスパルスのジュニアユースに入団しました。1期生は17人いて、私以外の16人は清水FCという名門サッカークラブの出身でした。

他のチームメンバーの中に1人入っても、顔見知りばかりだったので疎外感は特に感じませんでしたね。でも、コート外ではワイワイはする一方、実力がないと認めてもらえない世界です。早起きして練習に励むなど、中学生なりにどうやったらうまくなるか必死で考えて行動していました。

ジュニアユース時代は「プロなれたらいいな」と漠然と思っていたのですが、中学3年でU-15日本代表に選ばれた時、プロサッカー選手という目標が現実的に見えてきました。

高校は進学校でしたので、勉強とサッカーの両立で非常に忙しい毎日でした。卒業後の進路について、母親からは大学に行ってほしいとよく言われましたが、父親は「自分の好きなようにやれ」と言ってくれました。考えた末、サッカーの道に進むことを決意しました。

毎日の「振り返り」習慣化

<A4ノートに長期、中期、短期の目標を記入。中学生時代からPDCAサイクルを回す>

高校卒業後の1999年、晴れて清水エスパルスに入団。念願のJリーガーになりました。けがをしないよう日々気をつけるのはもちろんのこと、実力主義の社会の中で生き残るために普段から心掛けていることが二つありました。

一つ目は、プレーのレベルを高めるための「振り返り」です。これは、ジュニアユース時代のコーチに勧められたのをきっかけに中学生の時から続けていました。

トレーニングをしたら毎回、できたこと、できなかったこと、良かったこと、悪かったことをノートに記録。翌日の練習や試合に生かしていました。結果的に、これら一連の取り組みはPDCAサイクルを回すことだということに後で気づいたのですが、当時身についた習慣が今でも役立っています。

振り返りの記録には、A4のノートを使っていました。ノートの最初のページには必ず三つの目標を書くようにしていました。長期、中期、短期の目標です。

例えば、中学生当時の長期目標は「18歳でJ1の試合に出る」、中期目標は「U-16日本代表に入る」、短期目標は「来週の試合でこういうプレーをする」という具合に設定し、そのために何ができるかを日々考えて、トレーニングに落とし込むようにしていました。常にその目標を意識するようにしていましたね。

振り返りは毎日欠かさずしていたのですが、好きなサッカーのことでしたし、習慣化していたので、続けることは全く苦にならなかったです。

U-16日本代表の集合写真。上段右から2番目が谷川さん=本人提供
U-16日本代表の集合写真。上段右から2番目が谷川さん=本人提供

長期スパンでの成長を意識

<試合出場の機会にムラがあったJリーガー時代。心を整えるために「ある言葉」を反芻(はんすう)していた>

二つ目は、「心を整える」ことです。なんか長谷部誠選手の本みたいなのですが(笑)。エスパルス時代、私は毎試合出場できるような選手ではありませんでした。試合は毎週ありますが、ある日はベンチ入りしたけど出場できなかったり、別の日は試合に出場できたとしてもわずかな時間だったりと、振れ幅が大きいんですね。

変化の激しい環境にいると、徐々に心が整わなくなってきます。そういう時に、やけになって練習を手抜きしたり、夜な夜な飲みに繰り出してしまったりしたら、一瞬で「終わり」です。契約更新などしてもらえません。

心がブレそうになった時どうするか。私は、毎回“ある言葉”を思い出していました。それは、当時、清水エスパルスのコーチだった大木武さんに言われた「良い時も悪い時もあるけれど、半年後、1年後に振り返ったときに、少しでも右肩上がりになっていたらそれで良いじゃないか」という言葉でした。

それを繰り返し自分に言い聞かせることで、心のブレを鎮めていました。「成長」を広い目で捉えることで、気持ちを強く持つことができたんです。この言葉は琴線に触れ、今でもよく思い出しています。

「実は元々引っ込み思案なんです。その性格を変えたいと思い、今では人前で話すのが好きになりました」(谷川さん)
「実は元々引っ込み思案なんです。その性格を変えたいと思い、今では人前で話すのが好きになりました」(谷川さん)

サッカーを続けるための「決断」

<プロ4年目の試練。全ては自分の「実力不足」だった>

清水エスパルスに4年間在籍した中で、J1公式戦の出場は通算4試合(リーグ戦は2試合)、得点は1点でした。最後の1年は、ベンチ入りする試合はいくつもありましたが、出場の機会が訪れない日が続き、正直、来年の契約更新は厳しいだろうという予感はしていました。

案の定、2002年の冬に戦力外通告を受けた時、驚きはなかったです。でも、中学生の時から共にあったチームなので、寂しさは感じました。プロとして全力で取り組んできましたが、「もっとできたことがあったのでは」と自問自答を繰り返しました。

その時22歳でした。年齢的にも、体力的にもまだまだサッカーをできると思ったので、引退は全く考えていませんでしたね。当時、エスパルスはJ1リーグ内でも上位にいた強いチームだったので、「次の所属もすぐ決まるだろう」と思い、悲観はしていませんでした。

でも、その想定は見事に裏切られました。正式なオファーが来ないばかりか、セレクションを受けたJ1、J2のチームのどこからも声がかかりませんでした。上位チームばかりを狙ったのもあるのですが、実力不足としか言いようがありませんでした。

全ての選考結果が出た時期は、次年度に向けてのチーム編成が固まってしまっていた2月。国内でプロを続けるのは難しいと判断しました。サッカーを続けたい一心で所属先を探したところ、知人からアメリカの独立リーグのUSL(ユナイテッドサッカーリーグ)でセレクションの門戸が開かれているという情報を得ました。

すぐさま単身アメリカへ渡ることを決意。戸惑いや抵抗はありませんでした。サッカーをしたい気持ちが強かったですし、英語も好きでした。実は、元々引っ込み思案なのですが、好きなものに対しては前向きになることができるんです。海外での経験は、人生の幅が広がると感じ、渡米をしました。

谷川さんのポジションは、最初の数年はDFで、その後はMFだった=本人提供
谷川さんのポジションは、最初の数年はDFで、その後はMFだった=本人提供

2回目の戦力外通告で「事実上」の引退を決意

<米国リーグでプレーするも、もう一度Jリーガーを目指し帰国。しかし、待ち受けていたのは残酷な現実だった>

そして、USLのニューハンプシャー・ファントムスとの契約が決まりました。そこに所属し、週に2、3試合こなしながら、トップリーグMLS(メジャーリーグサッカー)のチームへの入団を狙っていましたが、外国人選手枠は3人という制約の中、メキシコや中南米の実力のある選手を抑えて入ることは現実的に難しかったです。

所属のチームでサッカーをすることに専念するも、もう少し高いレベルの環境でサッカーがしたいという思いが芽生えました。もう一度Jリーグでプレーしたいと思う気持ちが強くなっていき、翌年の契約更新はしませんでした。日本での所属チームは未定だったのですが、帰国を決意しました。

日本に戻ってからは、すぐにトライアウトを受け付けているチームを探し、応募する日々を送りました。「もしかしたらプロとしてサッカーを続けることができないかもしれない」と背水の陣で臨んだ挑戦は、焦りとプレッシャーに押しつぶされそうで、苦しかったですね。

試合後、選手インタビューを受ける谷川さん=本人提供
試合後、選手インタビューを受ける谷川さん=本人提供

その結果、J2の水戸ホーリーホックからオファーをいただき契約しました。2004年のシーズンは8試合出場し、1得点。でも、1年でクビになりました。この時、はっきりと悟ったことがあります。それは、「日本代表となってワールドカップに出場する」という夢は達成できないということです。

この2回目の戦力外通告が、私の中での事実上の「引退」となりました。

世の中のことをもっと知りたいと思い、24歳で大学受験を決意。大学で恩師とも言うべき人に出会い、就活ではJリーガーの経験、「2度の戦力外通告」も強みにして「28歳の新卒」として希望の会社に入ることができました。

【後編】25歳で大学受験した谷川さん「新卒」の就活でいきた戦力外の経験 プレー分析、営業の武器に

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