お金と仕事
コロナよりも大事だった通勤 「上司らしさ」保つための前時代的儀礼
職場以外の居場所がない…「関係財」格差の闇
新型コロナウイルスによってテレワークが進んだ一方、緊急事態宣言が解けると何事もなかったかのような通勤風景が戻る場面も見られます。通勤文化を揺さぶるかのように見えたコロナ禍ですが、結局、浮き彫りにされたのは会社に行くことでアイデンティティーを保っていた「会社人間」の存在感だったのかもしれません。会社以外に寄りどこがない人と、会社に頼らず豊かなコミュニティーを築ける人との間に広がる「関係財」の格差について、批評家の真鍋厚さんにつづってもらいました。
緊急事態宣言が解除された直後のことです。都心の乗換駅のホームで争う2人を見ました。
「おまえがぶつかって来たんだろうが」「なめてんのか」といういら立った声が遠くから聞こえ、たまたま近くを通りかかったところ、今にも殴りからんばかりの形相でにらみ合っていました。両者ともごく普通の会社員でしたが、目は異様に血走っており、心なしか疲労感を漂わせていました。コロナ禍でのストレスフルな状況も手伝って、恐らくこのようなトラブルが随所で発生していたのでしょう。
しかし、これはコロナ以前から頻繁に目撃されていた日本の朝の見慣れた日常風景でもあり、通勤文化と呼ばれる慣習におけるスキャンダラスな一幕に過ぎないのです。
緊急事態宣言下では、これまでテレワークに及び腰だった中小企業までが積極的に取り組んだ結果、首都圏をはじめとして多くの地域で通勤電車の乗車率が大幅に減少しました。
けれども、現在はといえば、再び東京や大阪などの都市部を中心に感染者が急増しているにもかかわらず、何食わぬ顔で通常勤務に戻したまま様子見の企業や、テレワーク勤務に制限を設けて一定程度の出社が必要とする企業、そもそもテレワークをいまだ実施していない企業等々があり、特に「テレワークが技術的には可能なのにあえて出社させている企業」で働く人々からは不満と怒りが沸き起こっています。
ここには実に根深い問題が潜んでいます。
かつてジャーナリストのイアン・ゲートリーは、未来に起こり得る可能性の1つとして、感染症のパンデミック(世界的流行)による通勤の見直しを指摘しました。
ゲートリーの予言はものの見事に的中しましたが、現状を見る限りわたしたちの社会においては、通勤は「完全にやめてしまうことはできないもの」なのかもしれません。
というのも、日本では満員電車に代表される通勤文化は、いわば「社会人」としての自己を作り出すための「儀式」のうちの1つ、「社会人」という産業コミュニティーのメンバーに入る「通過儀礼」の意味合いがあるからです。
「通勤」は「職場」という聖域とセットになっている意義深い行為だというわけです。これがほとんど惰性で続いているのです。
筆者は、先日、コロナ禍でも満員電車が続く日本の特異さに関心を示した海外メディアからコメントを求められ、「日本では満員電車に乗れて一人前という企業文化がある」という趣旨のことを話しました。
それゆえ、ウイルス禍であっても簡単にはなくならないだろう、と。「一人前」とはもっと正確にいえば「一人前の社会人」を指しています。「社会人」という概念は、「新社会人」が「新入社員」とほぼ同義で用いられていることからも分かる通り、そもそも「社会人ではないもの」を下位に置く序列を含意しており、非常に日本的で他国にはない特殊なものなのです。
テレワークの普及によって、フルリモートでの在宅勤務が定着すると、社員は従来の「勤務地」という「身体的な拘束」から解放される一方で、それによって、同じ職場という空間で触れ合いながら仕事をする「場所性と直接性に基づく協働行為」が失われ、会社への帰属意識が薄れたり、仲間との一体感を持ちにくくなったりするといった課題が生じます。
全社員がフルリモートで仕事に従事し、かつオフィスのない会社であっても、直接会う機会などを設けている場合が少なくないのはそのためです。
緊急事態宣言下では、「職場」という時空にだけ存在する独特の磁場に自らの居場所を見いだしていた人ほど動揺が走りました。
直接会社に集まる会議や、社員の出勤にこだわり、宣言解除後もリスクに関係なく直接対面を強いた上司や経営者がいたことが記憶に新しいですが、実のところ、その深層には「上司らしさ」「経営者らしさ」が在宅では得られないという理由が隠されていたと考えられます。これは先の議論に絡めれば「社会人らしさ」と言い換えられるかもしれません。
会社のヒエラルキーに依存した「自分は何者か」という感覚は、「職場」という聖域でこそ強く得られるものだからです。つまり、○○会社の○○というポジションの臨場感を保つための物理的な道具立てを切実に必要とした面があったのです。
それがウイルス禍よりも優先すべき「緊急事態」であったことは想像にかたくありません。いわゆるアイデンティティーの危機が生じたのです。
このようにコロナ禍に端を発した形で「職場」という「場」の意味は大きな転換を迫られているといえます。これは単に「職場」という「場」にとどまる話ではなく、人と人が直接会う「場」の意味全体についてです。
人によっては、生きていく上で「不必要」「ムダ」なものであっても、別の人にとっては「重要」「大切」だったということが霧が晴れたように明確になります。今までのライフスタイルは一体何だったのか? これが非常にシビアな状態で顕在化したのです。
「『自分自身を何かに同一化(アイデンティファイ)すること』、は自分でコントロールもできなければ、影響も及ぼせない未知の運命に人質を差し出すことを意味する」と述べたのは、社会学者のジグムント・バウマンでした(『アイデンティティ』伊藤茂訳、日本経済評論社)。
会社への帰属意識や特定の仕事をベースにした「社会的なアイデンティティ」の占める割合が高い人々ほど、バウマンの言う「未知の運命」に身を委ねざるを得ない状況に直面する恐れが増します。
日本では依然として会社=コミュニティー的な組織体としての性格が根強い一方、それが同調圧力の温床となり過剰適応に伴うワーカホリックの主な原因にもなっています。これこそが恐らくは、ゲートリーが言及した「無知で暴力的で原始的だった時代の遺物」となるリストの最上位に入るものでしょう。
コロナ禍の〝テレワーク狂想曲〟は事の始まりに過ぎません。通勤文化に象徴される固定的でかつ前時代的なライフスタイルの再考を突き付けられているとみるべきなのです。
人生100年時代の働き方のオピニオンリーダーとして有名な経営学者のリンダ・グラットンは最近、コロナ禍で変動する社会を概観しながら「仕事に人生の100%を捧げるな」と言いました。そして、(わたしたちには)「頼れる誰か、頼ってくる誰かが人には必要なのです。家族との関係だけでなく、コミュニティー強化の重要性も教訓として学ぶべきです」と忠告しました(『コロナ後の世界』文春新書)。
しかしながら、これは少なくない人々にとっては悪夢となり得ます。なぜなら、通勤にこだわるような「会社人間」が典型ですが、家族どころか、コミュニティーを持つことすら困難な実態があるからです。
グラットンは、コミュニティーについて3種類の人的ネットワークが必要だと述べています。関心分野を共有する少人数のブレーン集団である「ポッセ」、多様なアイデアの源となる「ビッグアイデア・クラウド」、安らぎと活力を与えてくれる現実世界の友人などで構成される「自己再生のコミュニティ」――この3つを意識的に築く努力をすべきだと指南するのです(『ワーク・シフト 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図』池村千秋訳、プレジデント社)。
「人間力」という名のハイパー能力主義が要求され、常にフレキシビリティー(柔軟性)と学習意欲を発揮することが生き残りの条件とされる――この流動化著しい現代社会においては、3種類もの人的ネットワークを自力で築くことは相当困難なハードルであることは明らかでしょう。
さらに、「場」と「関係性」こそがその人を賦活(エンパワーメント)し、尊厳のよりどころにもなる〝貴重な資源〟だと考えると、富める者はますます富む法則とまったく同様に、「関係財」を持つ者はますます関係の恩恵を受ける、経済格差と同じような構図が浮かび上がってきます。
今やその埋め難い溝がコロナ禍によってより激烈な様相を呈し、もはや修復不能な段階にまで達しつつあります。これこそがわたしたちにとっての真の「緊急事態」なのです。
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