連載
#48 #となりの外国人
話しかけたタクシーの運転手はボートピープルだった 日本での40年
「私は一人でやってこられたわけじゃないですから」
コンビニ、飲食店……まちなかで「外国人」をみかけることは、めずらしいことではなくなってきました。でもその本音を知る機会はなかなかありません。先日、東京都中央区日本橋で飛び乗ったタクシーの運転手に話を聞いてみると、「私は元ボートピープルです」と話し始めました。40年前、命がけで海を渡り、日本にたどりついた彼が、どんなことを思い、暮らしてきたのか。「日本を憎んだこともある」という日々。コロナウイルスの影響で「仕事が8割減って大変」という中、それでも「日本を愛している」と話すまでの思いを聞きました。
40年前、右も左もわからないまま日本に来た「トンさん」こと伊東真喜さんに、身近にあった音楽を教えてもらいました。つらい時、楽しい時、共にあった日本や故郷ベトナムの歌を聴きながら記事を読んでみませんか?
「車内の温度はいかがですか?」。昨年末、タクシーで、丁寧な言葉をかけてくれた運転手は、独特のアクセントがありました。ネームプレートは「伊東真喜」とありました。それでも私は興味をおさえられず、「大変失礼ですけど、外国のご出身ですか?」と尋ねてしまいました。
運転手は丁寧な口調を崩さず「はい。私はベトナムで生まれて、日本で育ちました。伊東は、私の日本の恩人の名前なんです」と答えてくれました。
彼のことが忘れられず、私はタクシー会社を通じてインタビューを申し込みました。
インタビューの日。磨かれた革靴と細身のパンツという「出勤時の私服」で現れたオシャレな伊東さんは「身だしなみが大切ですから」と言いました。歩きながらすっと手を伸ばし、自然に私を誘導してくれます。本当に丁寧に、人と接してきた方なんだと思いました。
勤めているタクシー会社「東京七福交通」(東京都荒川区)で、人生を聞きました。「日本に住んで40年ですから、本当に長い話になりますよ」と前置きした伊東さんは、「松川さん、ボートピープルってご存じですか? 私はインドシナ難民なんです」と話しました。
目の前のオシャレなタクシー運転手と「ボートピープル」という言葉を、私はなかなか結び付けることができませんでした。
伊東真喜(まさき)さんは、1968年12月25日、サイゴン(現ホーチミン市)で生まれました。7人兄弟の3男で、「チャン・アン・トン」と名付けられました。ベトナム戦争のまっただ中でした。でも、父が旧南ベトナム政権側の軍医だったことで、幼い頃は英才教育を受ける余裕もありました。「出来ないことは恥ずかしい。そう教えられ、猛勉強しました」。父のような医師になるのが夢だったそうです。
1975年の終戦で、生活は一変しました。旧南ベトナム政権が崩壊し、父は追われる身となり、家族が移り住んだのは、不発弾が残る土地でした。「畑を耕したら不発弾が爆発して、毎日、周りで誰かが死にました。それでも、開墾しなければ飢えてしまう。死ぬ覚悟で畑を耕しました」
7歳から11歳の間、伊東さんはそんな暮らしをしていました。
「このままだと子どもたちの未来がない」。両親は年上の息子3人を亡命させようとしました。極秘で、兄2人が先に亡命船に乗りましたが、「沈没した」とのうわさが流れました。父が涙を流すのを見ました。
「でも、国に残ったとしても飢え死にか不発弾か……選択肢はないと考えたんだと思います」。別の日、伊東さんも、海に連れて行かれました。そこには小さな木造船がありました。母は何も説明せず、泣きながらご飯を渡し、「船に乗って」とだけ言いました。
躊躇しているうちに船が岸を離れ始め、伊東さんはとっさに海に飛び込み、乗り込みました。「あれが私の運命の瞬間だったんだと思います」
沖合で大きな船に乗り換え、「17日間、105人で」海を漂ったそうです。水が足りず、伊東さんはレモンの皮をかじって耐えました。途中で船が海賊に襲われました。金品は奪われましたが、殺されることはなく、「良い方の海賊だった」。しかも「この先に油田があるから」と教えてくれ、たどりついた油田で外国籍の船に助けられました。助けられた直後、乗ってきた船は沈没しました。「ぎりぎりで生き延びてきました」
マレーシアの難民キャンプで、伊東さんは亡命先の希望を聞かれ「日本」と答えました。同じアジアなら顔も似ているし、うまくやれるはず……。しかし、周りからは「やめた方が良い。日本は厳しい国。アメリカにした方が良い」と止められたそうです。
1981年2月4日、大阪に到着しました。空港で着せてもらった冬服のあたたかさを忘れません。「高層ビルや、新幹線。未来都市に来たのかと思いました」。難民定住促進センターで日本語や、生活の仕方を教わり、里親の元に向かいました。
最初の里親は山口県のお坊さんでした。山の中のへんぴな場所でした。厳格な生活、寂しさもあり、一緒に受け入れられたベトナムの少年と家出を試みたこともありました。トラブルを聞きつけて尋ねてきてくれたのが、「伊東米(いとう・よね)先生」でした。難民の日本での生活をサポートする国際社会事業団のソーシャルワーカーでした。
里親と話を付け、別の家庭を探してくれました。後に、伊東さんが名字をもらった人です。「伊東米先生は、優しくてきりりとした人でした。トラブルには必ず来てくれたんです」
小5の2学期に、次の里親である「松岡さん」のいる愛知県春日井市に引っ越しました。
「自分の写真はほとんどありません。子どもの頃から、数年ごとに引っ越してきたので」。そう言って、ようやく探し出したという写真には、中学の制服ではにかむ伊東さんが写っていました。
「思春期だったので、親は本当に苦労したと思います」
ベトナムにいる父にはこの頃、連絡を取ることができました。日本から薬を送ることもありました。「あちらは生きるか死ぬか、という状況なのを知っているので、居ても立ってもいられない気持ちでした。早く稼いで楽をさせてやれないか、と」
まだ日本語が分からず、問題すら理解できない中、試験は、とにかく丸暗記して乗り切りました。「できないことは恥ずかしい」という、父の教えが頭にありました。
松岡さんが海外転勤になり、受験を控えた伊東さんは、中3の1学期に、新しい里親である埼玉県の「池田さん」宅に引っ越しました。そこで伊東さんは20歳まで過ごしました。
「弟も2人いるんです。今も家族ぐるみで会っています」。日本の弟の話になると、伊東さんは嬉しそうに笑います。
その頃は、安全地帯の玉置浩二や、ノルウェー出身のバンド「a-ha」のボーカル・モートンで「頭がいっぱい」でした。「『take on me』が胸に刺さって」
「池田のお父さんは厳しい人だった。お母さんは『彼女ができた』って教えると、お父さんに内緒でテレホンカードをくれました。いつも味方してくれたんです」
ふと、伊東さんは声を落としました。「小さい頃から転々としていると、『自分の親』だと心底はなかなか思えないんです。それで親を悲しませたこともありました」
それは高校受験の合否発表の日でした。伊東さんは、合格したことをすぐに家に報告しませんでした。帰宅すると、待ちわびていた母に「どんなに待っていたか」と泣かれました。
「まだ幼くて、『面倒を見てくれるおじちゃん、おばちゃん』ぐらいにしか思っていなかったんですね。でも、振り返ると、いつでも親たちは真剣に私と向き合ってくれていたんです。けんかもした。それも含めて親子なんだなと思います」
「そんなに甘くないんです」。インタビューの間、伊東さんは何度かこう言いました。
政府は労働者として、外国人を積極的に受け入れる方向にかじを切っています。しかし、伊東さんに言わせると、「40年住んでみて言えるのは、日本できちんと生活するのは、簡単なことじゃない。私も何度も夢破れました。日本政府も、日本に夢を抱いて来る外国人も、まだ分かっていないのではないかと思います」
学生時代の伊東さんは成績も良く、俊足で、人気がありました。
でも就職活動になると、大企業の採用試験は、ことごとく落とされました。「国籍を持っていない」「日本語が流暢ではない」などと言われました。
「最近はどこも外国人アルバイトばっかりで、びっくりしますよ。でも僕の時代は、『外国人』はだめでした」
福岡で物流会社に就職し、その傍らで「通訳」の仕事もしました。「インドシナ難民」と偽る人を見破る仕事でした。当時は天安門事件で中国からの亡命者が増えていましたが、日本ではほとんど難民認定されなかったため、そう偽る人がいたそうです。「でも、みんな死ぬ思いで海を渡ってくる。私も同じだったから、気持ちが分かったので、つらい仕事でした」。通訳は1年で辞めました。
家具メーカーに転職しました。そこで出会ったベトナム人に、ベトナムにいる親族を紹介されて、27歳で結婚しました。
「まわりからは結婚相手にベトナム人を選んだことに、驚かれました。でも、日本で考えてきたことの、一つの結果なんです」
高校時代から伊東さんは、何人かの日本人女性と真剣に交際していましたが、国籍の違いもあり、結婚まではいたりませんでした。
「日本で必死に追いつこうとしたけど、就職と結婚で、何度も夢破れたんです。20代の頃は、『なんで自分は生きているんだろう』と悩みました。日本を憎む時期もありました」
自分を選んでくれた妻を、とにかく幸せにしたい。
収入が増えるプラスチックやゴムの工場に入り、必死に働きました。工場は日本人ばかりでしたが、会話はありませんでした。「十数年、工場で働きました。だから日本語が下手になったのかもしれませんね」。妻のために、マイホームを2回、買いました。
伊東さんが日本国籍を申請したのは通訳を辞めた直後でした。「本当に国籍がないと困ることを実感したんです。国籍がないだけで、馬鹿にされているように感じました」
申請から12年かかって、息子2人が小学生になったとき、ようやく国籍を取得できました。「自分は散々な思いをしたので、子どもたちにはきちんとしてやりたかった。息子たちもすぐ日本国籍に変えました。日本生まれ、日本育ち、日本国籍ならうまくいくのではないかと思いました。突然、日本名に変わることを、意外にも息子たちは喜んでくれました。何か感じていたのかもしれません」
名字は「伊東米先生」に相談し、「伊東」をもらいました。
しかし、妻は日本に馴染むことがなかなかできませんでした。ベトナムでは美容師として働いていましたが、日本では資格を取ることができず、「日本は寂しい」とよく話していました。オーストラリアに暮らす妹たちのところに行きたいと、伊東さんに移住を提案しました。
伊東さんは「行きなさいよ」と答え、17年の結婚生活を終えました。息子たちも妻とオーストラリアに移住しました。
「つらい思いをしながらも、日本で暮らすことを選んだのはなぜですか」と私は聞きました。
「だって、私は日本育ちですから」と伊東さんは答えました。
「人間は住めば、愛着も愛情も湧きます。『良いから住む』んじゃなくて、悪いところも含めて……『好き』なんて言葉では表現できない……『日本を愛する』ということだと思います」
20代の時に比べて気持ちに変化もありました。「必死に追いつこうとした時期もありましたが、最近はもう諦めてます。だって40年住んでいるのに、『どこの人?』って聞かれるんです。『ベトナムで生まれて日本で育った』と答えます。もう変な気持ちはなくて、かえってすっきりしています」
必死に「日本人」になろうとしてきた伊東さん。その思いを知らず、私も最初、「ご出身は?」と聞いてしまっていたことを思い、恥ずかしくなりました。
でも伊東さんは「いや、10人中9人には聞かれるんです。そしてほとんどの方に褒め言葉を頂いて終わります。『日本のタクシーなんて、日本人でも難しいのに、よくがんばったね!』って」と笑い飛ばしました。
タクシー運転手になって、時間に拘束されない今の働き方を、伊東さんは気に入っていると言います。
インタビューを終えた後、伊東さんは自動販売機でコーヒーをおごってくれました。並んでコーヒーを飲みながら、伊東さんはふと「何でもないこういう普通の瞬間が、幸せだなと思えるんです」と話しました。「久しぶりに過去を振り返り、いろいろあったと改めて思いました。過去は極度につらかったから。やっぱり日本は私にとって『恩人』なんです」
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記事の配信前日、伊東さんに電話をすると、困り果てていました。インタビューしたのは2月下旬。その後、新型コロナウイルスの感染拡大防止のための自粛要請で、仕事も生活も一変していました。タクシーの手取りは前年同月比で8割減ったそうです。「夜8時以降は、不気味なほど、タクシーしか町にいません。あらゆる手を尽くして乗り切るしかないけど、先が見えない。僕だけじゃないですけど、本当に大変」
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