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どこかで会っているかも…日本で暮らす難民 受け入れ家族の幸せ

「ある日、トンくんがベトナムのランタンを作ってくれたの」

松岡さんの家に「里子」として来たトンくん。中学入学の頃に撮影した
松岡さんの家に「里子」として来たトンくん。中学入学の頃に撮影した

目次

約40年前、ベトナムから命がけで日本にたどりついたインドシナ難民の少年「チャン・アン・トン」さん。いまは日本国籍を取り、伊東真喜(まさき)さんとして、タクシー運転手になり、東京のまちを走っています。「一人でやってきたわけじゃないですから」と、これまで関わってくれたたくさんの日本人の名前を挙げて、伊東さんは話しました。そのうちの一家族に連絡すると「トンくん」を息子としていつまでも心配する「親たち」の姿が見えました。

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同じ「人間」だから

愛知県春日井市に暮らしている、松岡元(はじめ)さん(77)と、妻・さつきさん(74)。この松岡家で、後に「伊東真喜」と名乗る、チャン・アン・トンさんは、小学校5年生から中学3年生まで「里子」として、一緒に暮らしました。いまも、松岡さんはよく連絡をしています。「トンくん、コロナで仕事大変でしょう? 大丈夫なの?」

松岡さんはニュースで難民が日本に来ていることを知りました。まだ「難民」の本格的な受け入れを初めて間もない頃でした。夫婦で話し合い、里子として受け入れようと決めました。

1989年(平成元年)6月16日午前4時半ごろ、長崎県・下五島の南松浦郡三井楽町、波砂間(はざま)港内にベトナム難民105人が乗った木造小型船が停泊しているのがみつかった。全員が漁船に救助され、町内の集会所に収容された。写真は、三井楽町の公民館に収容されたベトナム難民たち=朝日新聞社西部写真部、高山顕治撮影
1989年(平成元年)6月16日午前4時半ごろ、長崎県・下五島の南松浦郡三井楽町、波砂間(はざま)港内にベトナム難民105人が乗った木造小型船が停泊しているのがみつかった。全員が漁船に救助され、町内の集会所に収容された。写真は、三井楽町の公民館に収容されたベトナム難民たち=朝日新聞社西部写真部、高山顕治撮影

松岡家に来たばかりのころ、トンくんはまだ日本語が十分に通じませんでした。松岡さんは日本語とベトナム語の辞書を買って対応しました。「ようやくコミュニケーションが取れるようになっても、なかなか気持ちまでくんでやることはできなかった。ずいぶん我慢させたんじゃないかと思います」とさつきさんは話します。

ちょうど反抗期と重なった子どもとの接し方には悩みましたが、松岡さん夫妻は「難民」ということはあまり意識しなかったと言います。「みんな、同じ人間だから」
早くに親や兄弟と離れていた分、「家族の良い雰囲気の中で育ててあげたい」ということを考えていました。

松岡家で中学入学の頃に撮影した「トンくん」こと伊東真喜さんの写真
松岡家で中学入学の頃に撮影した「トンくん」こと伊東真喜さんの写真

見せてくれた故郷の灯り

松岡さんが印象に残っていることがあります。ある日、竹ひごを使って、トンくんがベトナム式のランタン(提灯)を作ってくれました。「毎年、ベトナムで作るんだ」と故郷のことを教えてくれました。「日本の親や妹弟を喜ばせたい」という一心で、記憶の中のランタン作りを再現したのです。さつきさんは「それが本当にうれしかった。器用な子どもだなぁと思ったの」。

古都の街並みを彩るランタン=ベトナム・ホイアン
古都の街並みを彩るランタン=ベトナム・ホイアン 出典: 朝日新聞

松岡さんが海外に転勤することになったとき、トンくんは「早く高校受験がしたいから」と日本に残るため、別の里親のもとにうつりました。一緒に暮らせたのはわずかな時間でしたが、40年経った今も、連絡を取り合っています。

「『明るく頑張っています』と聞くだけで、うれしい。どうか日本で幸せに暮らしてほしい。できれば、もう一度自分の家庭をもってね」。息子の再婚を願う姿も、親そのものでした。

苦しい時期支えてくれた人の名に

トンくんが「伊東」と名乗ることになったのは、「伊東米(いとう・よね)先生」の存在でした。2度里親が変わったトンくんの元にことあるごとに助けに現れたという伊東米さん。調べると、インドシナ難民の里子の受け入れ支援をしていた社会福祉法人「日本国際社会事業団」(ISSJ)のソーシャルワーカーだったことが分かりました。

伊東米さんはすでに亡くなっていましたが、現在の常務理事、石川美絵子さんが取材に応えてくれました。

「日本に来て最初のころが一番苦しくて大変なとき。帰化するときには、自由に名前を選んでいいのですが、つらい時期に関わったソーシャルワーカーの名前にする子もいます」

トンくんを始め、ISSJが担当したインドシナ難民の子どもは57人いました。日本の生活にうまく適応しているか、保育園や学校、職場でうまくいっているか。電話で24時間対応し、トラブルがあれば間に入って調整したそうです。

伊東米さんたち、ソーシャルワーカーも、全国の里子のもとに駆け付けました。トンくんについては記録では「とてもホームシックにかかっている」と残っていました。「伊東さんと何人かのスタッフでケアをしていたようです」

いまはタクシー運転手として東京のまちを走る「トンくん」こと伊東真喜さん
いまはタクシー運転手として東京のまちを走る「トンくん」こと伊東真喜さん

どんな感じ方をしているのか

当時は、インドシナ難民の受け入れを手探りで始めている時期で、学校も地域も、難民やベトナム人を受け入れた経験はなかったと言います。「里子」として生活を始めるとき、受け入れる側、受け入れられる側の期待が違うなど、誤解が生まれると、孤立してしまいます。

ソーシャルワーカーはそんなとき、双方の話を聞きます。時には通訳も入れますが、本当に重要なのは言葉だけではないと言います。

石川さんは「たとえば、ベトナムが今どんな状況に置かれていて、どんな価値観や世界観を持って日本にいるのか知ることで、彼らの感じ方も分かるんです。それがないと、日本の価値観の押しつけになってしまいます」と話します。

一緒に暮らす「人」として

難民は母国から書類を取れないなど、日本に帰化すること一つとっても、普通の移住者より多くの壁にぶつかります。日本に適応できず、精神を病んでしまった人もいたと言います。

日本が受け入れたインドシナ難民は約1万1千人。そのうち、「トンくん」のように日本で生活の基盤を築いた人は、「想像できないような苦労と努力をされてきたんだと思います」と石川さんは話します。

インドシナ難民の受け入れ事業が終わった今も、日本のさまざまな場所で暮らしている「元難民」がいます。乗り込んだタクシーで、いつも入っている店で、ふと出会うことがあるかもしれません。「日本社会でお互いに依存し合って暮らしている『人』として、分け隔てなく見ることができたら、彼らも暮らしやすくなるかもしれません」

日本で暮らしてきた日々を数枚の写真を見せながら話してくれた「トンくん」こと、伊東真喜さん。「幼い頃から国や里親を転々としてきたので、写真はほとんど残っていないんです」と話した
日本で暮らしてきた日々を数枚の写真を見せながら話してくれた「トンくん」こと、伊東真喜さん。「幼い頃から国や里親を転々としてきたので、写真はほとんど残っていないんです」と話した

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